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河野広中(こうのひろなか)

幕末の福島県三春藩の武士、明治から大正時代にかけての政治家。第11代衆議院議長。儒学を学んだ影響で尊王攘夷論を唱え、戊辰戦争時に藩を討幕派へ導き、二本松藩攻略と会津戦争に参加。明治維新後は、地元で要職を歴任。自由民権運動に加わり、その後、自らがその運動の先頭に立つまでになった。1890年、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第14回衆議院議員総選挙まで連続当選した。この間、衆議院議長や農商務大臣を務めた。

山田耕筰(やまだこうさく)

大正から昭和時代の日本の作曲家、指揮者。“山田耕作”としても知られる。13歳の時、姉の夫(英国出身)に西洋音楽の手ほどきを受け、18歳で東京音楽学校に入学。その後、ドイツへ留学し、ベルリン高等音楽院で作曲を学ぶ。帰国後、日本最初の交響楽団『東京フィルハーモニー管弦楽団』を創設、劇団創立、北原白秋と月刊誌を創刊するなど、他の芸術文化との連動や可能性を追求した。加えて、数多くの国民的歌謡、校歌等を創作した。

生駒玄蕃(いこまげんば)=生駒正親(いこままさちか)

江戸時代前期の旗本。生駒正親。玄蕃(げんば)は通称。木下家定に仕えていた1594年に加古川舟運を思い立ち、阿江与助(あこうよすけ)らに加古川の加東郡滝野から大門までの開削工事を命じた。そこから加古川の舟運は始まったとされているが、中流にある『闘竜灘』が難所となったため、そこまでの開削工事となった(『闘竜灘』は後に開削されて水路が造られた)。

池田輝政(いけだてるまさ)

安土桃山時代から江戸時代初期の武将・大名。美濃池尻・美濃大垣・美濃岐阜・三河吉田の各城主を経て、播磨姫路藩初代藩主。通称は三左衛門。“照政”から晩年に“輝政”と改名。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、それぞれの家臣となり、三人から高評価を得た。1601年から1609年に姫路城の大規模改修を行なう。と同時に、加古川流域の改修も開始し、加古川上流の田高川の河川開発事業や下流域の高砂の都市開発事業を行なった。

一遍(いっぺん)

鎌倉時代中後期の僧侶。浄土教の一宗派である『時宗』(総本山:清浄光寺)の開祖。伊予国久米郡の豪族の子として生まれるも、10歳の時に出家。一度還俗するも、32歳で再び出家。各地を行脚し、空也に倣って踊り念仏を始める。“南無阿弥陀仏”と念仏を称えることに価値を置き、寺院に依存しない諸国遊行を貫いて、50歳で死去。弟子の聖戒が詞書(ことばがき)を記し、画僧の円伊が絵を描いた『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』(『一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)』)は国宝。

親鸞(しんらん)

鎌倉時代前中期の日本の仏教家。浄土真宗の宗祖。9歳で得度し、出家後は比叡山延暦寺で修行した。29歳で比叡山延暦寺を離れ、京都で法然に入門。法然を師と仰ぎ、教えを継承して、さらに高めることに注力した。35歳の時に『承元の法難(じょうげんのほうなん)』により僧籍剥奪・流罪となるも、5年後に勅免の宣旨が下る。が、流罪以降は非僧非俗の立場を貫いた。ただ、自伝的な著書が少ないため、その生涯については不明な事柄が多い。

日蓮(にちれん)

鎌倉時代の日本の仏教家。日蓮宗(法華宗)の宗祖。12歳で清澄寺に登り、16歳で得度・出家。問題意識を持ち、既存の宗派の教義に従うことなく、自身で経典に取り組み、それを基準にして主体的な思索を続けた。各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺・園城寺・高野山などに遊学。32歳で南無妙法蓮華経の教えを広めることになる。その後、幕府の命令で伊東や佐渡に流罪となったり、処刑されかけたりと、波乱万丈の人生を送ったとされている。

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