目次
- 廬溝橋事件(ろこうきょうじけん)
- 南 信(みなみまこと)
- フランク・ロイド・ライト
- 下河辺行平(しもこうべゆきひら)
- 足利成氏(あしかがしげうじ)
- 平賀保秀(ひらがやすひで)
- 伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)
- アーネスト・F・フェノロサ
- 横山大観(よこやまたいかん)
- 菱田春草(ひしだしゅんそう)
- 下村観山(しもむらかんざん)
- タゴール
- ジャン・F・ミレー(ジャン・フランソワ・ミレー)
- 吉田勘兵衛(よしだかんべえ)
- 屯田兵(とんでんへい)
- ウィリアム・ブルックス
- 大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)
- アレクサンドル1世
- 大槻玄沢(おおつきげんたく)
- 志村弘強(しむらひろゆき)
- 多紀理比売命(たぎりひめのみこと)
- 市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
- 田寸津比売命(たぎつひめのみこと)
- 徳川慶勝(とくがわよしかつ)
- 上杉景勝(うえすぎかげかつ)
- 五代友厚(ごだいともあつ)
- 蒲生氏郷(がもううじさと)
- 藤原清衡(ふじわらのきよひら)
- 相馬師常(そうまもろつね)=千葉師常(ちばもろつね)
- 保科正之(ほしなまさゆき)
- 松平定信(まつだいらさだのぶ)
- 三好長慶(みよしながよし)
- 苅部清兵衛(かるべ せいべえ)
- 鎌倉公方(かまくらくぼう)
- 関東管領(かんとうかんれい)
- 関東管領(かんとうかんれい)
- 山城大掾国包(やましろだいじょうくにかね)
- 大和伝保昌派(やまとでんほしょうは)
- 支倉常長(はせくらつねなが)
- 松浦佐用姫(まつらさよひめ)
- 加右衛門(かえもん)(画工)
- ビスカイノ
- ルイス・ソテロ
- 渡辺友以(わたなべとももち)
- 船津傳次平(ふなつでんじべい)
- 森喜作(もりきさく)
- 河村瑞賢(かわむらずいけん)
- 川村孫兵衛(重吉)(かわむらまごへえ(しげよし))
- 高島嘉右衛門(たかしまかえもん)
- 片寄平蔵(かたよせへいぞう)
- 浅野総一郎(あさのそういちろう)
- 中條政恒(なかじょうまさつね)
- ファン=ドールン
- 三島通庸(みしまみちつね)
- 高橋由一(たかはしゆいち)
- 三春駒(みはるごま)
- 大島要三(おおしまようぞう)
- 樋口市郎(ひぐちいちろう)
- 田中又一(たなかまたいち)
- 中村善右衛門(なかむらぜんえもん)
- 田中玄宰(たなかはるなか)
- 信夫佐藤氏(しのぶさとうし)
- 岩城則道(平則道)(いわきのりみち(たいらののりみち)
- 阿倍比羅夫(あべのひらふ)
- 北畠顕家(きたばたけあきいえ)
- 足利満兼(あしかがみつかね)
- 伊達持宗(だてもちむね)
- 白河結城氏(しらかわゆうきし)
- 千葉常胤(ちばつねたね)
- 義良親王(のりよししんのう)
- 吉良貞家(きらさだいえ)
- 守永王(もりながおう)
- 北畠顕信(きたばたけあきのぶ)
- 常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)
- 蘆名義広(あしなよしひろ)
- 相馬盛胤(そうまもりたね)
- 本多正信(ほんだまさのぶ)
- 渡邉與八郎(わたなべよはちろう)
- 枝正義郎(えだまさよしろう)
- 北畠親房(きたばたけちかふさ)
- 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
- 足利尊氏(あしかがたかうじ)
- 足利義満(あしかがよしみつ)
- 楠木正成(くすのきまさしげ)
- 木曽義仲(きそよしなか)
- 河野広中(こうのひろなか)
- 山田耕筰(やまだこうさく)
- 生駒玄蕃(いこまげんば)=生駒正親(いこままさちか)
- 池田輝政(いけだてるまさ)
- 一遍(いっぺん)
- 親鸞(しんらん)
- 日蓮(にちれん)
- 栄西(えいさい)
- 道元(どうげん)
- 河本敏夫(こうもととしお)
- 本居宣長(もとおりのりなが)
- 波多野秀治(はたのひではる)
- 太田垣光景(おおたがきみつかげ)
- 赤松広秀(あかまつひろひで)
- 赤井直正(あかいなおまさ)=荻野直正(おぎのなおまさ)
- タウンゼンド・ハリス
- 安井敬七郎(やすいけいしちろう)
- 法然(ほうねん)
- 信夫山招魂社(しのぶやましょうこんしゃ)
- 山名持豊(やまなもちとよ)=山名宗全(そうぜん)
- 木曽義仲(きそよしなか)
- 源義朝(みなもとのよしとも)
- 田沼意次(たぬまおきつぐ)
- 鈴木道雄(すずきみちお)
- 金原明善(きんばらめいぜん)
- エドワード・ウォーレン・クラーク
- 飯尾豊前守(いのおぶぜんのかみ)=飯尾連龍(いのおつらたつ)
- 北条高時(ほうじょうたかとき)
- 北条時行(ほうじょうときゆき)
- 懐良親王(かねよししんのう)
- 箕作阮甫(みつくりげんぽ):1799~1863年
- 高師直(こうのもろなお)
- 足利義詮(あしかがよしあきら)
- 大内義弘(おおうちよしひろ)
- 北山第(きたやまてい)
- 足利義嗣(あしかがよしつぐ)
- 平清盛(たいらのきよもり)
- 馬場信房(ばばのぶふさ)
- 角倉了以(すみのくらりょうい)
- 廓山和尚(かくざんおしょう)
- 今川義元(いまがわよしもと)
- 本多正純(ほんだまさずみ)
- 金地院崇伝(こんちいんすうでん)
- 南光坊天海(なんこうぼうてんかい)
- 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)
- 宇田川榕菴(うだがわようあん)
- 宇田川玄真(うだがわげんしん)
- 宇田川玄随(うだがわげんずい)
- 今川義元(いまがわよしもと)
- 本多正純(ほんだまさずみ)
- 金地院崇伝(こんちいんすうでん)
- 天海(てんかい)
- 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)
- ペリー
- 大隈重信(おおくましげのぶ)
- 江川英龍(えがわ ひでたつ)
- 中條金之助景昭(ちゅうじょうきんのすけかげあき)
- 勝海舟(かつかいしゅう)
- 川越人足(かわごしにんそく)
- 上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)
- 細川持常(ほそかわもちつね)
- 一色義貫(いっしきよしつら)
- 土岐持頼(ときもちより)
- 上杉憲実(うえすぎのりざね)
- 大内政弘(おおうちまさひろ)
- 細川勝元(ほそかわかつもと)
- 畠山義就(はたけやまよしなり)
- 足利義材(あしかがよしき)
- 細川政元(ほそかわまさもと)
- 浦野匡彦(うらのまさひこ)
- 小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)
- 国定忠治(くにさだちゅうじ)
- 小見辰男(おみたつお)
- 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
- 扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)
- 山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)
- 北条早雲(ほうじょうそううん)
- 高望王(たかもちおう)
- 平将恒(たいらのまさつね)
- 平武綱(たいらのたけつな)
- 三浦為通(みうらためみち)
- 源頼義(みなもとのよりよし)
- 佐原盛時(さはら/さわらもりとき)
- 三浦義同(みうらよしあつ)
- 古河市兵衛(ふるかわいちべえ)
- ゴルバチョフ
- 新島襄(にいじまじょう)
- 内村鑑三(うちむら かんぞう)
- 田山花袋(たやまかたい)
- 萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)
- 護良親王(もりよししんのう)
- 三野村利左衛門(みのむらりざえもん)
- 井上馨(いのうえかおる)
- 高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)
- 伊達政宗
- 黒田官兵衛(くろだかんべい)
- 神屋宗湛(かみやそうたん)
- 小早川隆景(こばやかわたかかげ)
- 黒田長政(くろだながまさ)
- 細川忠興(ほそかわただおき)
- 田中吉政(たなかよしまさ)
- 貝原益軒(かいばらえきけん)
- 山本作兵衛(やまもとさくべい)
- 安田善次郎(やすだぜんじろう)
- 大倉喜八郎(おおくらきはちろう)
- 広岡浅子(ひろおかあさこ)
- 出光佐三(いでみつさぞう)
- 物部守屋(もののべのもりや)
- 小野妹子(おののいもこ)
- 蘇我馬子(そがのうまこ)
- 岡本春暉(おかもとしゅんき)
- 平将門(たいらのまさかど)
- 新田義貞(にったよしさだ)
守永王(もりながおう)
南北朝時代の南朝の皇族。宇津峰宮。守永親王。後醍醐天皇の孫で、中務卿尊良親王の王子。宮号は、北畠顕信に奉じられて陸奥宇津峰城に拠ったことに由来するとされている。1347年、北朝方の奥州探題・吉良貞家が宇津峰城を攻め、守永王は顕信と出羽へ逃れた。親王宣下を受けて上野太守に任じられたこと、また歌人として『新葉和歌集』に8首入集しているが、人物像などを含めて詳細は不明。
北畠顕信(きたばたけあきのぶ)
南北朝時代の公卿・武将。北畠親房の次男。北畠顕家の弟。1336年、伊勢国で挙兵し、後醍醐天皇の吉野遷幸を助けた。兄の死後、鎮守府将軍に任命され、父と共に陸奥国に赴くも、途中で暴風にあって頓挫。吉野に戻る。翌年、再び陸奥に向かい、国府多賀城を一時占領するが、北朝方の反撃を受け失敗。機会を伺いながら、霊山城を拠点に周辺豪族をまとめ上げて活動するも、晩年の活動は未詳。
常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)
平安時代末期の武将。鎌倉幕府の御家人。伊達氏初代当主・伊達朝宗に推定されている。『吾妻鏡』には、息子の為宗・為重・資綱・為家と共に奥州合戦の石那坂の戦いで手柄を立て、伊達郡を与えられた記述がある。源頼朝は伊達郡を与えることで報い、念西はこれまでの伊佐、あるいは中村の姓を改め、以後、伊達を称することになった。これが伊達氏の勃興とされているが、初期伊達氏の系譜はいまだ解明されていない部分が多い。
蘆名義広(あしなよしひろ)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、武将。佐竹義重の次男として生まれ、白河義親の養子となる。奥州で伊達氏と並び称される有力大名・蘆名氏は、盛氏の時代に最盛期を迎えていたが、後継者問題などで盛氏の死後衰退。そこで、蘆名盛隆の養女と結婚して蘆名氏当主として迎えられ、蘆名義広と名乗るようになった。
相馬盛胤(そうまもりたね)
戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。相馬氏15代当主。母は陸奥守護・伊達稙宗の娘、妻は伊達氏の一族である懸田義宗の娘で、伊達氏とは密接な血縁関係だったが、伊達稙宗・晴宗親子の争い『天文の乱』で、父は稙宗派として晴宗と戦ったため、盛胤も稙宗派と目された。その後、和睦。ただ、相馬氏と伊達氏は、奥州の諸大名たちの争いに互いに関与しながら対立を深め、1568年に伊達輝宗と戦って敗北した。
本多正信(ほんだまさのぶ)
戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。徳川家康の側近で、江戸幕府の老中。父は三河松平氏の譜代家臣・本多俊正。古くからの松平氏譜代の家柄の生まれで、代々、徳川家に仕えるが、三河一向一揆に参加して、家康と敵対。後に帰参し、江戸開府後は家康、次いで2代将軍・秀忠の側近として、幕政の中枢で力を振るった。後年、家康とは気心の通じ合った主従であったと言われている。
渡邉與八郎(わたなべよはちろう)
渡邉與八郎は福岡の中心地・天神を南北に縦貫する「渡辺通り」にその名を遺す人物です。與八郎は慶応2(1866)年に博多の呉服商の家に生まれ、明治22( 1889)年に当主となるまでに父や博多の名士・山崎藤四郎などに商売や街の発展の重要性などを学びます。山崎藤四郎は明治13(1880)年には川端通りを造り商店街化、櫛田神社前の参詣道などの開設を行い、博多周辺を一周する循環道路の建設も計画しました。藤四郎の実績を見習い、與八郎は、循環道路建設とともに道路上に電車を通すことを計画し、明治43(1910)年1月に博多馬車軌道を買収、国鉄博多駅と博多築港を結び、天神や住吉神社などを一周する路線(のちの西鉄福岡市内線循環線)と、妙見から吉塚駅に至る支線の計画を実行に移します。
こうして誕生したのが「博多電気軌道」です。與八郎はほかにも、東中洲と博多港の開発や九州大学医学部の誘致、八幡地区の埋め立て計画、初代博多座の開設などに携わり、数々の功績を残しました。
そして明治44(1911)年、博多電気軌道の部分開業に伴い、天神地区の発展に尽力した與八郎の労苦に応え、天神地区に渡辺通り、渡辺町の名称をつける案が出ます。しかしながら與八郎はこれを固辞し、直後に死去。
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