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北畠顕家(きたばたけあきいえ)

鎌倉時代末期から南北朝時代の南朝公卿・武将。北畠親房の長男。後醍醐天皇の信頼が厚く、12歳で参議に任じられて公卿に。建武の新政では16歳で陸奥守に任ぜられる。建武の乱では、新田義貞や楠木正成らと協力して、足利尊氏と戦い、九州に敗走させた。任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝の内乱が起こる。再びこれを討とうと鎌倉を陥落させ、上洛する際に戦局が悪化。各地での戦いに次々に敗れ、和泉国石津にて20歳で戦死。

足利満兼(あしかがみつかね)

室町時代前期の武将。第3代鎌倉公方。第2代鎌倉公方・足利氏満の長男。21歳で鎌倉公方となる。父の時代から京都の室町幕府将軍家と対立しており、『応永の乱』で挙兵した大内義弘に呼応。加勢するために鎌倉を発つも、関東管領・上杉憲定に諌められ、大内義弘の戦死も聞き、鎌倉に引き返す。伊豆・三島神社に幕府に恭順の意を示す願文を奉納して罪は赦された。32歳で病死。

伊達持宗(だてもちむね)

室町時代前中期の武将・地頭。伊達氏11代当主。10代当主・伊達氏宗の長男。別名・伊達泰宗。父の死により家督を継いだ翌年に鎌倉府(鎌倉公方・足利持氏)に反旗を翻し、篠川・稲村御所を襲撃。持氏は畠山氏に持宗討伐を命じ、福島の大仏城を落城するも、鎌倉側は伊達氏を完全に討伐できなかった。その後は幕府に帰順し、寺社造営などで功績を上げた。

白河結城氏(しらかわゆうきし)

日本の氏族。白河氏、陸奥結城氏とも言われる。鎌倉時代に、秀郷流藤原氏の流れを持つ結城氏の祖・小山朝光が得た白河庄に、朝光の孫・結城祐広が移り住んだのが白河結城氏の始まりとされる。戦国時代には陸奥国南部の白河地方を支配する戦国大名となり、白川城を居城としたが白河結城氏の衰退と共に同城は廃城になり、小峰城が白河結城氏の本拠地となった。

千葉常胤(ちばつねたね)

平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。千葉一族の中興の祖。鎌倉幕府成立に貢献した有力御家人の一人。源義朝指揮下で保元・平治の乱を戦い、源氏との関係が出来る。伊豆で源頼朝が反平家の兵を挙げると、一族をあげて積極的にこれに参加。数々の戦に勝利し、これらの活躍によって下総・上総、薩摩や肥前、豊前、陸奥など各地に所領を獲得。下総守護に任ぜられた。

義良親王(のりよししんのう)

後村上天皇。名は初め憲良、のち義良。後醍醐天皇の皇子。南北朝時代、第97代天皇(南朝第2代)。1333年、北畠顕家と共に陸奥に赴き、東北の鎮護にあたる。父のあとを受け、1339年、12歳で即位。遺志を継いで南朝の京都回復を図る。大和の吉野・賀名生、摂津の住吉などを行宮とした。摂津住吉にて崩御。在位29年。

吉良貞家(きらさだいえ)

南北朝時代の武将。初代奥州管領。陸奥国の南朝勢力の制圧に努めた。1345年、畠山国氏と共に陸奥国に下向し、奥州管領(奥州探題)として陸奥多賀国府を拠点に、霊山や宇津峯の南朝軍を攻めた。その後、国氏との対立を深め、観応の擾乱では足利直義方に属し、足利尊氏方となった国氏を攻め滅した。1354年以降の足跡の史料がなく、この頃に没したとされている。

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