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樋口市郎(ひぐちいちろう)

安田瓦職人。経営者。安田瓦とは、雪国の厳しい気候に対応する断熱性と耐寒性に優れた瓦。瓦職人の修行を終え、喜多方の若喜商店(醸造業)に住み込みで働きながら、瓦の原料である良質の赤土と燃料の赤松がある三津谷地区を見つけ、市内の有力者数人に出資の協力を得て、「樋口煉瓦工場」を創業。瓦と煉瓦の生産を担う「三津谷の登り窯」を建設し、喜多方における近代化産業の先駆けとなりました。

田中又一(たなかまたいち)

喜多方市出身の煉瓦師。12歳で煉瓦師に憧れ、東京へ。住み込みで働きながら修業先を探し、清水組(現清水建設)のお抱え煉瓦師のもとで修業。当時、東京では国策による耐火構造建築が進み、最先端の煉瓦建築技術を習得することに。明治33年、地元に戻り、喜多方初の煉瓦師となる。明治35年、樋口市郎と共同作業で喜多方で最初の煉瓦建築を建設し、以後、さまざまな煉瓦建築物を建て、喜多方における煉瓦文化を創った。

中村善右衛門(なかむらぜんえもん)

幕末から明治時代の養蚕技術者。陸奥伊達郡(福島県)の蚕種製造家の家に生まれる。当時、生糸は高値で取引され、地域の繭は幕府指定品となっており、気候の変動に左右される養蚕飼育をなんとか一定化させようと奔走。体温計をヒントに改良を重ね、養蚕用の温度計『蚕当計』を製作。これを利用した標準飼育法を完成させ、その方法を記した『蚕当計秘訣』を出版した。

田中玄宰(たなかはるなか)

江戸時代後期の会津藩家老。“会津藩中興の祖”と言われた5代藩主・松平容頌をはじめ、6代藩主・容住、7代藩主・容衆の3代の藩主に仕えた容頌に、文武の振興と殖産興業の奨励など、藩政の改革を提案。藩校の設立や目安箱の設置、漆の栽培、養蚕染色や良質の酒造りなどが次々と実施され、会津藩が発展する基礎を築いた。その功績は周囲からも高く評価された。

信夫佐藤氏(しのぶさとうし)

陸奥国の佐藤氏のひとつで、藤原鎌足の子孫である藤原秀郷の次男・千常を始祖とする日本最大の貴族の一族。藤原氏の出自として藤原氏を“補佐する”という意味の“佐(すけ)”から『佐藤』と名乗ったとされているが、“佐渡の藤原氏で佐藤と名乗った”などの諸説がある。藤原秀衡の側近である佐藤継信・忠信兄弟は源義経と源平合戦で平氏を滅ぼすなど信頼も厚く、佐藤兄弟の父・佐藤基治は荘園を所領し信夫荘司・湯荘司と称した。

岩城則道(平則道)(いわきのりみち(たいらののりみち)

平安時代中後期の武将。平則道とも呼ばれた。陸奥国南部で常陸平氏の一族・岩城氏の始祖とされている。奥州藤原氏とも関係が深かったとされ、正室は奥州藤原氏初代当主・藤原清衡の養女・徳姫。平安時代後期には磐城地方の国主だったとされているが、則道に関する現存史料が存在せず、実在性自体が疑わしいとも言われている。

阿倍比羅夫(あべのひらふ)

7世紀中期の将軍。左大臣・阿倍内麻呂の死去で阿倍氏宗家が絶え、傍系出身だが氏上的な地位に就いた。越国守だった658年から蝦夷・粛慎征討を行うなど、朝廷の北方進出や蝦夷平定に貢献。662年、中大兄皇子の命で、新羅征討軍の後将軍として朝鮮半島に向かい、百済救援の武器や食糧を送ったが、翌年、新羅と唐の連合軍との『白村江の戦い』に敗れた。この後、唐や新羅の来襲に備えた九州地方の防衛責任者“筑紫大宰帥”に。

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