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上杉謙信の戦略図②越中・能登・加賀の制圧

上洛を見据えて越中、能登、加賀へ出兵し、京への道を切り拓きます。

北条→織田→本能寺…目まぐるしく変わる同盟相手

川中島の戦いが一応の終息を見た後、上杉謙信は、同盟相手を次々と変えながら、関東と越中への遠征を繰り返しました。

永禄 年(1569)に宿敵の北条氏康と越相同盟を結んだのは、信玄への牽制のためでした。しかし3年後、この同盟は北条氏康の死により破綻しました。

続いて謙信は北条と武田に対抗するため、織田信長を同盟相手に選びます

当時、一向一揆や武田氏と対立していた信長からの誘いに応じ、同盟に踏み切りますが、これも長くは続きませんでした。

信長の北陸進出に加え、天正4年(1576)に将軍・義昭の仲介で、謙信が長年宿敵としてきた一向一揆勢力と和睦したからです。謙信も義昭や本願寺の信長包囲網に加わったため、信長との同盟は破綻。敵対関係に変わりました

北陸に進出してきた織田勢と激突

こうして信長の敵に回った上杉謙信は、義昭の要請を受け上洛を見据えて越中、続いて能登(のと)を平定します。

しかし上杉謙信と断交した信長も北進して加賀に迫り、天正5年(1577)に手取川(てどりがわ)の戦いで激突しました。

上杉謙信はこれに大勝して信長を震撼させますが、翌年、謙信は出兵直前に、急死。戦いの生涯を終えました。

天下を見据え始めた上杉謙信

川中島の戦いがひと段落したあとの上杉謙信は、めまぐるしく同盟相手を変えながら関東と越中への遠征を繰り返します。やがて上洛を見据えて越中、能登を平定。加賀へと進撃した上杉謙信は、柴田勝家を手取川の戦いで鮮やかに打ち破ってみせました。

戦国時代の豆知識:武田信玄 越中・加賀・能登制圧

謙信には実子がなかったため、没後、二人の養子、上杉景勝と上杉景虎(北条三郎)の間で御館の乱が勃発。天正7年(1579)景勝が勝利して家督を継承しました。

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【〝北条早雲〟の伊豆制圧―1493年】
地図:北条早雲の台頭を許した関東の情勢(北条早雲の関東進出の戦略がわかる)
【鉄砲伝来―1543年】
地図:火縄銃の波及(種子島に伝来した新兵器が多方面に広まっていく様がわかる)
【三好政権―1549年】
地図:三好政権の支配地(信長以前の畿内を支配した政権のしくみと失敗の構造がわかる)
【キリスト教伝来―1549年】
地図:イエズス会の布教体制(教区)(カトリックの布教体制とキリシタン大名の関係がわかる)
【桶狭間の戦い―1560年】
地図:合戦後の東海情勢(義元没後に起こった今川家崩壊の過程がわかる)
【第4回川中島の戦い―1561年】
地図:疑問だらけの大会戦(川中島の戦いに関する通説のウソがわかる)
【堺の降伏―1569年】
地図:堺の硝石と金(信長が畿内進出後真っ先に堺を押さえた理由がわかる)
【長篠の戦い―1575年】
地図:長篠の戦い戦況図(武田軍を鉄砲の前へ誘き寄せた信長の高度な戦術がわかる)
【大坂の夏の陣―1615年】
地図:徳川軍の進軍経路と大坂の陣(なぜ大坂城の南側が戦場となったのか?がわかる)

『地図でスッと頭に入る戦国時代』監修者

小和田哲男(おわだてつお)
1944年、静岡県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。現在、
静岡大学名誉教授。(公益財団法人)日本城郭協会理事長。専門は日本中世史。著書に
『家訓で読む戦国 組織論から人生哲学まで』(NHK 出版)、『戦国武将の生き方死に
ざま』(新人物往来社)、『明智光秀・秀満:ときハ今あめが下しる五月哉』(ミネルヴァ書房)
など多数。

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