更新日: 2024年1月13日
武田信玄の戦略図~豪族の群雄割拠が続く信濃に活路を求めた甲斐の虎
〝父の遺産〟甲斐を引き継ぎ、武田信玄が信濃を制圧します。信濃制圧を目前にして現われた越後の上杉謙信との対決!
信長・家康と同盟し、今川領へ侵攻します。将軍義昭の誘いに乗り、信長包囲網に参戦して上洛しました。
武田信玄の戦略図①信濃制圧戦
武田信玄が信濃を制圧~“父の遺産”甲斐を引き継ぐ
天文10年(1541)に父の信虎を追放して家督を相続した武田信玄(晴信)は、翌年、肥沃にして小豪族が割拠する信濃への侵略を開始しました。
武田信玄は、同盟関係にあった諏訪の諏訪頼重を滅ぼすと、次々と諸勢力を打ち破り、北信濃の最大勢力の村上義清(むらかみよしきよ)と衝突します。
天文17年(1548)の上田原(うえだはら)の戦い、2年後の戸石城(といし)の戦いと、武田信玄は2度も大敗を喫したものの、天文21年(1552)に義清の本拠葛尾城を真田幸綱(さなだゆきつな)の調略によって攻略しました。一方、信濃守護の流れを汲む小笠原長時(おがさわらながとき)に対しては、塩尻峠(しおじりとうげ)の戦いで大勝し、2年後、信濃より駆逐します。こうして武田信玄は信濃の大半を制圧しました。
武田信玄は信濃制圧を目前で上杉謙信と対決
快進撃を続ける信玄の行く手を阻む巨大な敵が現われます。
村上義清や小笠原長時など、信玄に追われた信濃の諸勢力の支援要請を受けた越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)です。
武田信玄は、初めて謙信と合間見えた1回目の川中島でのにらみ合いののち、天文23年(1554)に今川、北条と三国同盟を結びました。
これにより、関東の北条氏康と信玄は、上杉謙信を共通の敵とすることとなり、連携しながら以降4度の川中島の戦いを展開していきます。
武田信玄は信濃を制圧しながら北進
統一された甲斐を引き継いだ信武田信玄は、家督継承後、大勢力の存在しない信濃攻略に着手します。天文11年(1542)の諏訪攻めを契機に、およそ20年をかけて信濃全域を手中に収めました。
武田信玄信濃制圧戦
武田信玄は内政においてもたしかな経営手腕を発揮しました。喧嘩両成敗で知られる分国法『甲州法度之次第』を定め、信玄堤を構築して甲斐の治水を行ないました。
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