更新日: 2024年1月20日
白河口の戦いに敗れた会津藩は会津若松城の開城し新政府軍に降伏する
なぜ会津藩は、明治維新では新政府軍に抵抗を続けたのでしょうか。
徳川宗家に従ってきた、親藩大名としての必然的な理由がそこにはありました。
目次
会津藩が旧幕府軍側に与した理由とは
会津藩主を務めた保科氏は、3代藩主・正容のときに松平姓を許された親藩大名であり、徳川宗家(そうけ)への忠誠が厚く、江戸時代を通じて一貫して幕府寄りの立場をとり続けました。
9代藩主・松平容保(かたもり)は京都守護職に任命され、新選組を庇護して京都の治安維持に努めました。松平容保は孝明(こうめい)天皇から御宸翰(ごしんかん)(天皇直筆の手紙)を賜るほどの信任を得て公武合体(朝廷と幕府の関係を強化して幕藩体制を再編)を進め、1864(元治元)年の蛤御門(はまぐりごもん)の戦い(禁門(きんもん)の変)では病をおして長州軍を退けています。
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