更新日: 2024年1月18日
石巻の歴史~かつて北上川流域の米が集まる湊として仙台藩の経済の中心地だった!~
政宗の命によって河川改修と新田開発が進められた北上川流域。
その生産物は舟で石巻湊に集められました。
この奥州随一の湊は、どんな様子だったのでしょうか。
石巻の歴史:奥州を代表する湊として栄えたわけ
北上川河口に位置する石巻は、東廻航路の完成以来、奥州を代表する湊として栄えました。仙台藩のほか、八戸藩・南部藩・一関藩を含む広大な北上川流域で収穫された大量の米が、䠠舟(ひらたぶね)で川を下って石巻に集約されたからです。仙台藩の江戸廻米は、年間15 万石以上。多いときで20万石に達したといいます。
北上川の舟運
北上川沿岸には、仙台藩領内だけでも20カ所以上の河岸がありました。
北上川で活躍した䠠舟
北上川では䠠舟がもっとも多く用いられました。䠠舟は、浅く平らで細長い質素な造りの舟です。全長19m、幅4m、深さ0.9m、帆柱 13.6m、帆の長さ7.3mほどと、当時の川舟としてはかなり大きいです。棹や帆を使って走り、川を遡上するときには綱を結んで岸から人が引くこともありました。
黒沢尻~石巻では下りに3~5日、上りに10~15日を要したといい、水夫は船上で煮炊きをし、寝泊まりしました。宝暦年間(1751~1764)には仙台藩領内で464隻の䠠舟があったと記録されています。
石巻には蔵が軒を連ねた
石巻には、運ばれてきた米を保管するための蔵が立ち並びました。仙台藩の米蔵は、湊・本町・住吉の3か所にあり、合わせて13万5000俵を収納できました。米のほかにも、材木や塩などの物資が集まりました。仙台藩の鋳銭所や造船所、代官所などの公的機関、登米伊達家や他藩の会所なども軒を連ねました。
※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。
まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!