河村瑞賢は阿武隈川の舟運路を整えて東廻航路を完成させた
より早く確実なルートを開発するため、1670 (寛文10)年に幕府は江戸商人の河村瑞賢を抜擢。河村瑞賢は、阿武隈川の現地調査や開削を行い、舟運路を整えました。阿武隈川には川幅が狭く流れが急な箇所が多く、川底の改修など工夫が凝らされました。
荒浜湊から江戸への輸送は、従来の利根川経由ではなく、房総半島を回って江戸へ直送する航路が試みられました。黒潮が北上し、冬には西風が吹き、また房総半島周辺の海は遠浅で座礁の危険があるため、避けられていたルートでした。
河村瑞賢は、房総半島から一度江戸を通りすぎて伊豆半島か三浦半島に入り、大坂から江戸への廻船と同じように江戸へ向かうという方法を開発しました。これによって、1671 (寛文11)年に新しい東廻航路が完成しました。
河村瑞賢が刷新した東廻航路
酒田などから出発し、津軽海峡を抜けて南下し、江戸へ向かいました。江戸に直航するルー トが完成したあとも、状況によっては利根川ルートが使われました。
河村瑞賢の東廻航路によって本格的な海運の時代が到来
航路が沖合になったため、船は大型化し500石積み程度から2000石積みの廻船も現れました。本格的な海運の時代が始まったのです。
阿武隈川の舟運で、福島藩・米沢藩・仙台藩の廻米が盛んに運ばれるようになりました。難所が多い福島河岸(かし)から水沢・沼ノ上の区間は、積載量40俵ほどで浅瀬や急流に強い「小鵜飼船(こうかいぶね)」が用いられました。水沢・沼ノ上河岸で、100俵ほど積める「䠠舟(ひらたぶね)」に積み替え、荒浜湊まで運びました。
江戸時代中期になると、廻米のほかに特産の生糸なども出荷されました。また、荒浜湊は亘理伊達家の外港としても機能したようです。1771(明和8)年ごろに制作された「阿武隈川舟運図」に福島河岸から水沢河岸までの様子が描かれています。舟運の時代は、明治に入り鉄道が登場するまで続きます。
阿武隈川の舟運
水沢・沼ノ上で積み替えて荒浜へ。玉崎は奥州街道と阿武隈川が接する地点で、仙台に送る物資はここから陸路で運ばれました。
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