奥州街道ができる以前の道:東山道
奥州街道ができるまでには、どんな道があったのでしょうか。まず、6世紀ごろから東北に開かれてきた道に、「東山道(あずまのやまみち)」があります。山間部を通って東国へ至る道として自然と発生し、律令国家が成立すると官道の「東山道(とうさんどう)」として整備されました。人や物資の移動を円滑に行えるようにするためです。
奥州では蝦夷の勢力が強大だったため、東山道を通して移民や物資を送り、城柵を築いて対抗しました。8世紀後半から9世紀前半に蝦夷との戦いが本格化すると、東山道は軍隊や兵糧を送る軍道として利用されました。そして、蝦夷征伐が進み支配域が広がるとともに距離を延ばしていきました。
平安時代から戦国時代までの道の整備
平安時代に中央の支配力が弱まり、地方の武家が力を持ち始めると、道の整備も各地方の武家を中心に行われるようになります。11世紀中ごろに奥州藤原氏が覇権を握ると、東山道をさらに延ばし「奥大道」として整備し直しました。道は、中央が地方を支配するためのものではなく、各地方が領域の発展のためにつくるものに変質していきました。
鎌倉時代・室町時代を経て戦国時代になると、軍事的必要性から要地と要地を結ぶ道の整備が進みます。また、宗教の広まりとともに参詣の旅が盛んになったため、東北の代表的な霊場である出羽三山へ向かう参詣の道が開かれました。
奥州街道は江戸時代に整備された
そして江戸時代になり、藩が主体となって奥州街道の整備が行われることとなります。奥州街道の道筋は、それまでの時代の幹線道路であった東山道や奥大道とほぼ同じですが、各藩の城下町建設にともなって変更された区間も多くあります。仙台城下はまさにその一例で、岩沼宿から北の道筋が仙台城下町に直進するように直され、新たな宿駅も設けられました。
奥州街道の道筋にある宿場
では、現在の宮城県域にあった宿場を、南から順に見ていきましょう。
奥州街道の道筋
(左)宮城県域を通る奥州街道と旧宿場町。
(右)奥州街道の全体像。旧国道4号や東北本線のルートと重なります。
奥州街道の各宿場の特徴
まず、福島藩との藩境にある越河(こすごう)宿には、境目足軽と呼ばれる下級武士が集住しており、仙台藩領を出入りする人や物のチェックを行っていました。藩主の参勤交代時には、ここまで重臣が送り迎えしました。次の斎川(さいかわ)宿は、疳(かん)(夜泣きなどを引き起こす小児の神経症)の薬になるといわれる孫太郎虫(ヘビトンボの幼虫)の産地として有名です。
その次は、伊達家の重臣であった片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)が住む白石(しろいし)城下の白石宿。参勤交代をする藩主は白石城に泊まりました。
そして、最上へ向かう笹谷(ささや)街道との分岐点にある宮(みや)宿、片倉氏の拝領町場の金ヶ瀬(かながせ)宿、紅花取引で栄えた大河原(おおかわら)宿、源頼朝も宿泊したと伝わる舟迫(ふなはざま)宿、次に槻木(つきのき)宿があります。
続く岩沼宿は、沿岸を北上する江戸浜街道と合流する交通の要衝で、岩沼館が設置されていました。ここも参勤交代時の藩主の休泊地です。
岩沼宿から先は仙台城下に直進するようにつくり直された区間なので、増田(ますだ)宿・中田(なかだ)宿・長町(ながまち)宿と、江戸時代初めに新設された宿場が続きます。そして広瀬川にかかる大橋を渡ると、いよいよ仙台城下に入ります。
奥州街道の仙台城下の宿場
街道沿いの景観は、藩の威信を示すため美しく整えられました。仙台城大手門へ伸びる大町通と奥州街道が交差する「芭蕉の辻」には 城郭風の立派な櫓(やぐら)が立ち、旅人たちを驚かせました。
国分町には、大名や幕府役人が宿泊する外人屋(がいじんや)や、土木工事や荷物の運搬に携わった人足のための御人足宿、一般客が泊まる旅籠屋が軒を連ねました。
江戸時代には、伊勢参りなどの参詣の旅のほか、名所旧跡、温泉をめぐる旅が庶民の間で流行しました。仙台東照宮の祭りのときには、山車を見物するためにあちこちから旅行客が訪れたといいます。白河城下の商人・川瀬氏による『奥州道中記』に、祭礼見物をしたときの様子が書き残されています。
仙台城下の奥州街道と沿道の町
①堤町(つつみまち):町の南側に大きな堤(農業用溜池)があったことが由来。良質の粘土が採れるため、足軽たちが内職として焼き物を始めました。
②通町(とおりちょう):畳職人や大工など、職人が多く住んでいました。
③北鍛冶町(きたかじまち):鍛冶職人が住んでいました。寛永年間、国分町から立町辺りにあった鍛冶町が南北に分離移転したものです。
④二日町(ふつかまち):旅籠屋を中心にさまざまな商店が並んでいました。2の付く日に斎市を開いていたのが名の由来。
⑤国分町(こくぶんまち):城下最大の伝馬町。国分氏に仕えていた人々が商人となって住みました。
⑥大町(おおまち):城の大手門に続く町。御譜代町の中でも最上位に位置づけられました。1丁目から5丁目まであります。
⑦南町(みなみまち):御譜代町の1つで、主に荒物(ほうき、ザルなど大きめの雑貨)を扱いました。
⑧柳町(やなぎまち):御譜代町の1つ。茶の専売権を与えられました。
⑨北目町(きためまち):名取郡郡山北目から移住した国分氏の家臣によって形成された伝馬町。
⑩上染師町(かみそめしまち):藩や家臣たちの絹物を扱いました。
⑪田町(たまち):田を潰してつくられた町。仙台城普請への貢献が認められ、紙の専売権を与えられました。
⑫荒町(あらまち):御譜代町の1つで、麹の専売権をもちます。夏は麹の生産に適さないので、団扇づくりを副業にしました。
⑬南鍛冶町(みなみかじまち):鍛冶職人が住みます。北鍛冶町と同様、寛永年間に分離移転。
⑭穀町(こくちょう):米穀販売の特権をもちます。近くに広瀬川で運ばれた米を貯蔵する蔵がありました。
⑮南材木町(みなみざいもくまち):木材の専売権を与えられました。のちに煙草の専売権も得ます。
⑯河原町(かわらまち):城下の南の入口であり、広瀬川岸に位置します。青物市場が設置され、農産物の流通拠点として栄えました。
※⑫~⑯は若林城造営の際につくられた町です。
「芭蕉の辻」という地名の謎
仙台城下の経済中心地として栄えた芭蕉の辻。つい俳人の松尾芭蕉を連想してしまいますが無関係です。では「芭蕉」とは何なのでしょうか。由来は不明ですが、以下の4つの説があります。
①大町・南町・国分町のそれぞれに番所があり、「番所の辻」と呼ばれていたものが転じた。
②「(繁華な)場所の辻」から転じた。
③伊達政宗に仕えていた芭蕉という虚無僧が諜報で功績をあげ、この地を拝領した。
④芭蕉の木が植わっていた(仙台藩が編纂した地誌『封内風土記』による)。
ちなみに、芭蕉の辻にはキリスト教や捨馬を禁止する制札が掲げられていたため、「札の辻」 とも呼ばれていたといいます。
奥州街道の商業を牛耳った商人町
商業を振興して町のにぎわいを保つため、24ある商人町には特定商品の専売権が与えられました。特に、米沢城時代から伊達家に従って移転してきた大町・肴町(さかなまち)・南町・立町(たちまち)・柳町・荒町は御譜代町または六仲間と呼ばれ、藩政期を通して仙台の町政と商業を牛耳りました。
城下を抜けた北側には、七北田(ななきた)宿、富谷(とみや)宿と江戸時代初期につくられた宿場が続きます。次の吉岡(よしおか)宿は出羽街道との分岐点。その先には、鳴瀬川沿いの舟運拠点でもあった三本木(さんぼんぎ)宿、旧古川城下の古川(ふるかわ)宿、田園地帯の荒谷(あらや)宿・高清水(たかしみず)宿・築館(つきだて)宿・宮野(みやの)宿・沢辺(さわべ)宿・金成(かんなり)宿があります。宮城県域最北端の有壁(ありかべ)宿には現在も本陣(宿泊所)の遺構があり、宿場街の風情をよく残しています。
奥州街道の宿場の懐事情
参勤交代の人々をはじめ、多くの旅人でにぎわった奥州街道ですが、宿場は必ずしも豊かではなかったようです。宿場の人々も基本は農業を生業にしていたし、宿代収入があるとはいえ、人や物の移動に必要な馬や駕籠(かご)、人手を提供する伝馬(てんま)役の負担はそれ以上に重いものでした。伝馬役の人々には代償として商業や交易も認められていましたが、小規模な商売だったので大きな収入にはなりませんでした。
宿場がなければ街道は機能しないため、藩も対策を打たなければなりませんでした。1859(安政6)年には、城下北目町や宮宿、金ヶ瀬宿など、特に困窮している宿場の救済事業が藩によって実施されています。貧駅の1つである吉岡宿では住人たちが立て直しに奔走し、その記録が『国恩記』という本にまとめられています。
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