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笠原水道は水戸の水問題を光圀公が解決するために命じて作られた 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

笠原水道は水戸の水問題を光圀公が解決するために命じて作られた

寛文3(1663)年、わずか1年半の工事で完成した笠原水道。現在も市民に親しまれる湧水はどのように見つけられ、市街地に届けられたのでしょうか。

笠原水道の必要性:初代水戸藩主から引き継いだ給水難のための施策

水戸藩初代藩主の徳川頼房は城下町を建設するため、武士を上町(うわまち)(現・上市(うわいち)地区)に、商人らを下町(したまち)(現・下市(しもいち)地区)に住まわせます。下町は低湿地であったものの水質が悪く、飲用水の確保に苦労していました。そこで、1627(寛永4)年、吉田村の溜池2カ所から給水する田町用水をつくりますが、給水は一部の地域に限られ、降水量が多いときには水が濁るなどしたため、根本的な解決にはなりませんでした。

1661(寛文元)年に2代藩主となった徳川光圀は、こうした給水難を解消するため、翌年、町奉行の望月五郎左衛門恒隆(もちづきごろうざえもんつねたか)に水道をつくることを命じます。望月は、和算家で天文や地理に精通した平賀保秀(ひらがやすひで)に設計を依頼。平賀は南から流れ込んでいる逆川の右岸の笠原不動尊の麓に湧水を見つけ出し、この地を水源地に選びます。

笠原水道の水源環境

笠原水源〜藤柄町が約3.8km、藤柄町〜細谷が約6.9km、全長約10.7kmの笠原水道。水源地には1826(文政9)年に建てられた藤田幽谷撰文の「浴徳泉記」の碑があります。

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