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水戸徳川家の成り立ち~秋田へ転封した佐竹氏に代わって常陸に投入された徳川親藩・譜代大名~

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

水戸徳川家の成り立ち~秋田へ転封した佐竹氏に代わって常陸に投入された徳川親藩・譜代大名~

やっと達成した常陸統一もむなしく、佐竹氏は出羽国へと転封させられました。代わって常陸国には、徳川親藩・譜代の大名たちが配されるのでした。

水戸徳川家までの流れ

豊臣秀吉の小田原征伐(1590年)後、江戸氏の所領は没収され、その居城だった水戸城(水戸市三の丸)には佐竹氏が入りました。その後、関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康が勝利して佐竹氏が出羽国(秋田地方)へ転封になると、佐竹氏の旧領には徳川の親藩・譜代大名が入ることになりました。

水戸城には下総佐倉藩(千葉県佐倉市)から徳川家康の五男・武田(松平)信吉が15万石で入ります。さらに常陸国内の各地には、土浦藩に松平(藤井)信一3万5千石、笠間藩に松平(松井)康重3万石、古河藩に松平(戸田)康長2万石など、譜代大名が配されました。中世以来の旧勢力を常陸国内から追い出し、支配体制を完全に一新したのです。武田信吉を中心として東北の外様大名へ備えさせようとした意図が読み取れますが、信吉は1603(慶長8)年に21歳の若さで病没してしまいます。

代わって水戸藩には、家康の十男・徳川頼将(よりのぶ)(のち頼宣に改名)が20万石で入ります。このとき頼将はわずか2歳でした。頼将は1609(慶長14)年には駿河藩へと転封したのち、55万5千石で紀伊和歌山藩に入り、紀州徳川家の祖となります。

頼房が入る前の領主配置。親藩の武田氏を笠間・土浦・古河の譜代大名が支えます。武田氏以外は5万石以下の小大名。
『茨城県の歴史 第2版』(山川出版社、1997年)を元に作成。

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