更新日: 2024年1月14日
宮城が米どころになるまで~「江戸の消費米の1/3は仙台米」という噂の真相!
政宗の水田開発、吉村の買米制度により流通が広がり、藩の財政難を救った仙台米。
最盛期には20万石が運ばれ、50万両の利益を出したといわれています。
目次
宮城を米どころにしたのは伊達政宗
伊達政宗が仙台に築城を始めた江戸時代初期、仙台平野は低湿地帯の原野でした。そのうち、北部の北上川、中部の鳴瀬川、城に近い広瀬川や名取川、南部の阿武隈川などの流域は水田に適した土地とされ、藩は各領主に水田開発を命じました。新規の開発分は知行高(所領地の石高)に組み入れられたため、開発は意欲的に進められていったといいます。
こうした仙台藩の成長期に、米の生産に拍車をかけたのは、江戸の急激な人口増加による米不足でした。関東だけでは供給が間に合わない状態に目をつけた政宗は、仙台領の米を江戸に積み出し、藩の財政基盤を堅固なものにしていきました。
宮城の米を江戸へ運ぶ運搬船で栄えた石巻港
新田開発を可能にしたのは、河川改修や用水路の開削などの大規模な治水事業でした。特に北上川は、本流の流路の付け替えや開削によって、大水田地帯となった大崎周辺の米を船で運び、石巻港から江戸へ効率的に搬出できるようになりました。1622(元和8)年には、石巻に藩の米蔵が建てられ、石巻港は奥州随一の港として多くの船が出入りしていたといいます。
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