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「杜の都」となるきっかけとなった仙台藩の事情~武士人口が多かった!~

仙台藩は、石高のわりに武士人口が多い藩でした。伊達家が抱える武士は、幕末には総勢約3万3800人を数え(下級の陪臣を含めた場合)、これは平均的な藩の3倍から4倍ほどの多さになります。城下の武家屋敷と町屋敷の面積比から見ても、武家屋敷は7~8割を占めています。

当時の福井や鶴岡の城下町では、武家屋敷の割合は25%ほどであったことから考えても、仙台藩の武士の多さは歴然としています。

仙台藩に武士が多かった理由とは

それにしても、なぜこれほどまで武士が多いのでしょうか。それは、仙台藩が大幅に領地を失っても家臣を減らさなかったからです。

ひとたびは120万石にまで領地を広げた仙台藩でしたが、秀吉に会津領を没収され、家康による「100万石のお墨付き」も反故にされてしまい、最盛期の半分ほどの62万石となりました。肥沃な会津や米沢の土地を失ったことは痛手でしたし、代わりに手に入れた大崎・葛西氏の所領には未開発の地が目立ちました。

「杜の都」の名前の由来は仙台藩の武家屋敷にあった!

攻略した地の武士を自らの陣営に加え、膨れ上がった人員に、多くの給料を払えるほど仙台藩の財政に余裕はありません。そこで、自給自足のために屋敷の庭への植樹を奨励しました。

武家屋敷は、下級武士でも1000㎡ほどの広さがありました。ここに、カキやクリなどの実がなる木や、建材として使えるスギやマツを植えさせたのです。落ち葉や枯れ枝も、燃料や肥料として余すところなく活用されました。この屋敷林こそが、時代を経て生長し「森の都」の「森」の由来となったのです。

「杜の都」仙台城下町の設計

仙台城下において、どこにどんな屋敷が配置されたのかを見てみましょう。

仙台城下町の建設にあたっては、政宗が自ら屋敷割図を描いて、奉行の川島豊前(かわしまぶぜん)・金森内膳(かなもりないぜん)に示したといいます。城下町は、城を中心に防御的役割をもたせながらも、交通の便をよくして商業や交通の拠点となるように設計されました。

まず、幹線道路である奥州街道と、それと直行するように仙台城大手門下からまっすぐ伸びる大通りを基軸に定めました。ここに、ほかの城下町と同様に、碁盤の目状に町割りを行いました。

「杜の都」仙台城下町:武家屋敷の配置

奥州街道・大町通沿いに商業や宿泊業を担う町屋敷を並べ、それを取り囲むように中級武士の屋敷を配しました。

足軽などの下級武士の屋敷は、敵襲に備えるため、町はずれの名掛丁や五十人町といった軍事的な要所に置かれました。その周りには寺社が置かれ、足軽たちは信仰する神社を中心に結束しました。仙台城の鬼門(北東。不吉な方角とされる)にあり、標高約100m、東西約1.5kmの丘陵地となっている北山にも、防衛線として5つの寺を配しました。この5つの寺は、いずれも伊達家と中世以来の縁がある臨済宗の古刹で、藩内の寺院の中でも厚遇されました。

上級武士は、急な出陣にも対応できるように、城のすぐそば(川内)や、城からよく見える対岸の崖沿いの区域(片平町や中島丁)に住まわせました。片平丁の通りは、「大名小路」とも呼ばれました。

片平丁の南西、蛇行する広瀬川によって袋状に形作られた「米ヶ袋(こめがふくろ)」には、鷹狩りに携わる中・下級武士が住みました。

「杜の都」仙台城下町:武家屋敷の配置

現在の片平町。武家屋敷の跡地は、明治時代に政府の管理下に置かれ、裁判所や大学の設置が進められました。

「杜の都」仙台城下町:商人町

商人町にはそれぞれ指定品目の専売権などの特権が与えられました。染師や鍛冶職人など、藩お抱えの職人は、職種ごとに屋敷を与えられていました。商人や職人の町は、扱う品物の名前が町名に付くことがよくあります。

「杜の都」仙台城下町:商人町
『図説 宮城県の歴史』ほか各種資料を元に作成

武家屋敷の範囲を赤で示しています。街道沿いに町人が住み、周りを武家屋敷が囲んでいました。

「杜の都」と呼ばれる以前からあった屋敷林「居久根(いぐね)」

仙台城下町では、武士の自助策として屋敷林の造成が奨励されましたが、屋敷林の文化は中世から仙台平野に存在したようです。

宮城県の名取川・鳴瀬川流域の田園地帯を中心に、東北各地でみられる屋敷林は「居久根」と呼ばれます。地方によっては「イグネリン」「エグネ」と呼びます。「居」は住居、「くね」は垣根を意味しています。「居久根」という呼称が定着するのは江戸時代中期のようです。

屋敷林は洪水や冬の季節風から家と畑を守るだけでなく、稲に付く害虫を食べてくれるトンボやカエルのすみかとなります。ときに食料となる実をつけます。

さまざまな知恵が詰め込まれた居久根は、豊かで独特な景観を生みます。現在、積極的に保全活動が行われています。

「杜の都」仙台の2つ目の城・若林城の築城

1628(寛永5)年、政宗は仙台2つ目の城・若林城を築城するとともに、この城下に一部の家臣や町人を移住させました。南鍛冶町・穀町・南材木町・河原町は、このときにつくられた町です。

開府当初は田町の南が城下の入口でしたが、新しい小城下町の建設にあわせて奥州街道が若林城の方向へ曲げられ、河原町の南が入口となりました。政宗の死後に若林城は廃されますが、若林城下の町西半部は存続します。

「杜の都」仙台城下町の構造は現代に受け継がれる

このように、政宗が設計した仙台城下町の構造は、現代にほぼそのまま受け継がれています。

しかし、「森の都」の由来であり、武士たちの暮らしを支えた屋敷林は、太平洋戦争での空襲によって失われてしまいました。それでも、焼け野原となった町に再び木を植え、「杜の都」としてよみがえらせた先人たちの不屈の精神に敬意を表したいものです。

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・伊達政宗が始めた一大治水事業、暗渠化した四ツ谷用水をたどると見えてくる伊達政宗の町づくり
・「杜の都」の由来となった森はいったいどこにある?
・東京駅丸の内駅舎に使われた雄勝石をめぐる波乱のドラマ

などなど宮城のダイナミックな自然のポイントを解説。

●宮城に開かれた道の歴史

・東北中の人々が旅した奥州街道!その繁栄を支えた宿場の光と影
・険しい奥羽山脈を越えて宮城と山形を結んだ道の歴史
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・野蒜港計画とともに消えた幻の巨大運河ネットワーク構想
・東北新幹線が仙台駅前後で不自然に蛇行する理由とは?
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・東北支配の拠点となった陸奥国郡山官衙と多賀城
・藤原家三代秀衡が陸奥守に就任・宮城の地も藤原家の統治下に
・室町時代に権勢を誇った大崎氏・名生館の屋敷で伊達氏らが拝謁
・敵を寄せ付けぬ天然の要害 正宗の拠点・仙台城が完成
・伊達62万石を揺るがせた伊達騒動の顛末を追う
・元禄バブル崩壊で財政危機!5代吉村が改革に乗り出した
・飛行隊基地に陸軍駐屯所など軍都としても栄えた宮城県

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