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伊達政宗は徳川家康の求めで関ケ原の戦いへ!2万石加増と仙台築城を許される 観光協会・観光局

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

伊達政宗は徳川家康の求めで関ケ原の戦いへ!2万石加増と仙台築城を許される

本領であった伊達郡を失い、岩出山へと赴いた伊達政宗は家臣の所替えを行いました。
秀吉死後は徳川家康に近づき、旧領地の一部回復と仙台築城を実現したのです。

伊達政宗が行った新たな知行割

秀吉による奥州仕置後に岩出山城主となった伊達政宗は、本領の召し上げに気落ちしていたことでしょう。とはいえ、天下人である豊臣秀吉に、逆らうこともできなかったに違いありません。

岩出山に移り住んだ政宗は、家臣に対して新たな知行割を進めました。

例えば、伊達成実(だてしげざね)を二本松(福島県)から伊具郡角田(いぐぐんかくた)(宮城県)に、白石宗実(しろいしむねざね)を安達郡塩松(あだちぐんしおまつ)(福島県)から胆沢郡水沢(岩手県)に、茂庭綱元(もにわつなもと)を安達郡百目木(どうめき)(福島県)から柴田郡沼辺(ぬまべ)(宮城県)に、片倉景綱(かたくらかげつな)を信夫郡大森(おおもり)(福島県)から亘理郡亘理(宮城県)に、などといった具合です。

知行地の変更は、召し上げられた領地から、改易によって手に入った葛西・大崎両氏の旧領地への所替えだけでなく、領国全域に及んだといわれます。

伊達政宗としては、失った福島や山形などの旧領地も元に戻したいと強く願っていたことでしょう。そのチャンスは、意外に早く訪れました。

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