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名古屋城が築城された熱田台地とは

名古屋がある濃尾平野は、低湿地帯が多く、ひとたび長雨が降れば泥沼と化し、開拓、そして戦において非常に難儀な地域であることは当時から知られていました。いわば、清洲に比してさらに築城に向かない土地でした。そこで家康が目を付けたのが、濃尾平野西部にある熱田台地です。

南北に細長く延びた舌状台地をなす熱田台地は、北側、西側に広がる低湿地帯に比べて地盤が非常にしっかりしています。家康は、その頑丈な熱田台地の北西の角に名古屋城を建てました。城の北側と西側は崖で、その下は足場の悪い湿地とくれば、いかにも攻め難い強固な城です。

築城事業は天下普請であり、建造を命ぜられた大名らは担当部分の費用をみずから出さねばなりませんでした。そしてこれは、豊臣方の大名たちの経済力を削ぐことにつながりました。家康、恐るべしです。

名古屋のデジタル標高地形図

名古屋のデジタル標高地形図

濃い青色が標高の低い土地で、黄色・橙色・赤色と赤みが強い場所ほど標高が高いです。名古屋城は、舌状に南北に延びた台地(黄色)の西北端に築かれ、北側と西側が崖になっているのがよくわかります。

名古屋城の南側につくられた城下町

さらに、城の南側に続く台地上につくられた城下町にも大きな特徴があります。通常、城下町は平野へ続く台地の先端部や小さな丘につくられます。ですが、名古屋は海抜10mという城の南に隣接した高い台地に町がつくられ、そこに町人たちを住まわせました。侍たちが暮らす武家屋敷などは、町の周囲の土地に形成されました。

城下町の主役は、あくまでも商売に勤(いそ)しむ町人たち。豊臣を滅ぼし天下泰平の世となれば、国は商人たちによって発展すると考えた、家康の鋭い先見の明によるものです。

名古屋城の城下町の特徴

このようにして台地につくられた城下町は正方形に碁盤割りされ、賑やかな商人たちの暮らしが営まれることになりました。名古屋城下に住んだ人々の多くは清洲からの移住者たちで、町ぐるみで越してきました。そのため、清洲での町名がそのまま名古屋の町でも使われたというところに、名古屋を守り立てた町人たちの繋がりの深さ、気質が感じられます。

地割の一区画はおよそ100m四方。大坂城の城下町なども正確な地割ですが、その町は東西の通りに面してのみ店の入口があり、南北の通りは裏道的なつくりになっていました。対する名古屋城下は、正方形区画の東西南北すべての方向に店の入口が面しています。どの通りも賑わいにあふれていたのです。

他方で、こうした地割だと区画の中心にはどうしても空間ができてしまいます。家康は、そこに人々を癒す寺を建てました。現在の名古屋の街でも区画中心の空間に駐車場が建設されるなど400年前の地割が残されており、その歴史を感じることができます。なお、現代の名古屋の100m道路もこの町割りに起因しています。

現在の名古屋城付近

現在の名古屋城付近

名古屋城、堀川、碁盤割りの街並みなど、家康が築いた名古屋城とその城下は今も健在です。

名古屋城と城下町がこの地につくられた理由

自然の要害を利用した名古屋城とその城下町ですが、じつはこの地につくられた理由は地勢だけが理由ではありません。

名古屋城から南へ約7㎞、舌状台地の南端にあるのが天下人を目指した信長、秀吉らも崇め奉った熱田神宮。家康もまた、熱田神宮を崇めてやまない武将であり、それが熱田の台地に城を建てた大きな理由でもありました。

古代から熱田の社として多くの人々が参詣してきた熱田神宮は、門前町も賑わい、東西交通の要衝として発展してきました。近世には東海道の宿場町となり、熱田の宮から三重の桑 名までを結ぶ海上路「七里の渡し」でつとに有名です。

とはいえ、名古屋城から熱田神宮までは距離があります。熱田は、木曽三川を利用した木材輸送を中心に、名古屋の人々にとってとても重要な港でした。この陸路7㎞の問題を解決するためにつくられた巧妙な仕掛けが「堀川」なのです。

名古屋城は地の利を生かした名城

堀川は、熱田台地の西側斜面に沿って熱田港と名古屋城下を結ぶ用水路。台地と湿地帯の境目より少し上、台地の斜面を掘削することで、雨による増水の被害も少なくできました。かくして、熱田の海路からの水上輸送路、堀川を得た名古屋の町は、木曽の上質な木材の一大集積地となりました。

大坂に睨みを利かせる防御力の高い城と巨大な経済発展を遂げる城下町。家康が構築した名古屋城は、地の利を生かした、まさに名城です。

名古屋城と縁の深い吉田城は豊川の河岸段丘上に築かれた

名古屋城と縁の深い吉田城は豊川の河岸段丘上に築かれた

名古屋城と縁の深い城が、現在の豊橋市にある吉田城です。城の創建は1505(永正2)年(諸説あり)、駿河の今川氏親(いまがわうじちか)の指示により、現在の豊川市牧野町一帯を本拠としていた牧野古白(まきのこはく)が馬見塚(まみづか)に「今橋城」を築いたのが始まり。当時の東三河地域には戸田氏や西郷氏がおり、重要な場所でした。

吉田城は、豊川と朝倉川の合流点、豊川が大きく蛇行している南側の河岸段丘上に築城されました。この場所は、古代から豊川を渡るための交通の要所であり、難所でもありました。船着き場となっていた入道ヶ淵を埋め立てたといわれます。また、段丘面は豊川から10m超の高さがあり、自然の要害となっています。

その後、吉田城はその城主がめまぐるしく代わり規模が拡大していきました。とくに、1590 (天正18)年、豊臣秀吉の家臣である池田照政(いけだてるまさ)が城主となった際には、歴代城主最大の15万石で入封。東三河の要衝とするべく大規模な拡張工事が行われました。その際、天下普請の名古屋城の余剰石材が使用されています。その証拠に、石垣の花崗岩の多くに刻印があり、約60種の刻印は名古屋城のそれと符合。ここに、吉田城の重要度合いと格の高さがわかります。

また、鉄櫓(くろがねやぐら)の北西2面の石垣は池田照政時代のもので、建築技術の高さも一級品。ほかに空堀や土塁など、往時を感じることができる貴重な遺構が残されています。

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