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吉田新田の開発~吉田勘兵衛によるの着手と頓挫

摂津国能勢郡(せっつのくにのせぐん)(大阪府)生まれで、1634(寛永11)年に江戸へ出て材木・石材商を営んでいた吉田勘兵衛(よしだかんべえ)が、1656(明暦2)年、新田開発に着手しました。

これは大岡川と中村川に囲まれた新田開発地に堤防を築き、その範囲の海を干上がらせる工事(干拓)でしたが、翌57(明暦3)年5月の大雨で川が氾濫し頓挫してしまいます。

吉田新田開発の再着工と完成

その後、1659(万治2)年に再着工し、新田を囲む約1860mもの堤の築造、海水の排出、海側の防潮堤づくり、干上がった土地に用水路や道路、田畑を整備するなど、さまざまな工事を完了。工事に使う土砂は太田村(久良岐郡)の山(現・京急日ノ出町駅裏手の天神山)などから運ばれました。

新田が晴れて完成を見たのは着工から10余年、1667(寛文7)年のことでした。

吉田新田の形状と家綱による改名

釣り鐘型の新田は、底部に防潮堤が築かれ、かつて大岡川の河口だった頂部で川は左右に分水(中村川と分水)し、中央部には用水路(中川)が通されました。

当初は野毛新田と呼ばれましたが、1669(寛文9)年、徳川4代将軍・家綱が吉田新田と改名。このとき吉田は名字帯刀を許されています。

日枝神社の創建と「お三」の伝説

1673(寛文13)年、勘兵衛は釣り鐘の頂点付近に日枝神社(ひえじんじゃ)を創建。同社には、新田完成を祈って人柱になったという「お三(さん)」の伝説が残っています。

吉田新田の規模

なお、1674(延宝2)年の検地によって、吉田新田の石高は約1038石と決まり、面積は約35万坪、その8割が水田でした。

吉田新田は横浜大発展の礎となった

江戸末期には、現在の横浜中華街付近が横浜新田、横浜スタジアムや横浜市役所付近は太田屋新田(おおたやしんでん)として埋め立てられ、入海のほとんどは陸地化しています。

そして、吉田新田を筆頭にした新田開発は、のちに港の建設を容易にし、開港の地として大発展する横浜の礎となったのです。

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