更新日: 2024年1月14日
【合肥新城の戦い】諸葛亮の中原回復の希望を頓挫させた呉の失態
曹操(そうそう)に次いで劉備(りゅうび)が白帝城(はくていじょう)に没し、三国の争いの中心は蜀の諸葛亮(しょかつりょう)へと移っていきます。
劉備からその子・劉禅(りゅうぜん)と漢王朝再興を託された諸葛亮は国力の回復に尽力すると、速やかに呉と同盟を結び直し、225年、たびたび反乱を起こしていた南中を自ら大軍を率いて平定します。
後顧の憂いを断った諸葛亮は蜀漢の悲願である漢王朝復興のため、劉禅に自らの決意をしたためた「出師(すいし)の表(ひょう)」を奉り、魏討伐に出陣しました。以後、五次にわたる北伐が行なわれることとなります。
諸葛亮の中原回復の希望を頓挫させた呉の失態。
合肥新城に苦戦する呉軍
諸葛亮(しょかつりょう)が5次にわたる北伐(ほくばつ)を続けていた頃、蜀との同盟を復活させた呉の孫権(そんけん)は、何度も魏領の最前線・合肥(がっぴ)に侵攻するも攻略しきれていませんでした。
233年にも孫権自らが合肥に攻め込んでいます。ところが合肥を守る満寵(まんちょう)は、合肥城を長江沿いから河岸から離れた合肥新城へと移していました。
そのため水上からの攻撃ができなくなった孫権は、上陸して攻め込みますが、魏軍の伏兵に攻撃され、敗退してしまいます。
【合肥新城の戦い注目の武将】満寵とはどんな武将?
兗州で曹操に仕え、汝南太守などを歴任。関羽(かんう)の樊城(はんじょう)攻めの際には曹仁を助けて防衛に貢献しました。明帝時代には合肥の防衛を担当し、その際、江湖に近いという合肥城の欠点を指摘して合肥新城を築き、同地で孫権を撃退することに成功しました。
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