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根岸競馬場建設のきっかけとは
時を前後して1864(元治元)年11月21日、幕府は英米仏蘭の4カ国と「横浜居留地覚書」を締結。その第1条では、居留地背後の沼地を埋め立て競馬場を建設するとしていました。が、1866(慶応2)年に行った話し合いの結果、建設地を根岸に変更。その決定の模様は「横浜居留地改造及競馬場墓地等約定書」の第1条に記されています。
幕府は、生麦事件、薩英戦争といった相次ぐ攘夷戦(じょういせん)に対し、要望を聞き各国の感情を和らげるとともに、東海道から離れた根岸村の高台を適地と考えたのです。
根岸競馬場が根岸の高台に完成
コースやスタンドの工事は、イギリス駐屯軍のボンド中尉らの設計・監督のもと始まり、1866年11月には日本初の常設競馬場として根岸競馬場は完成。またこの間、6月には運営組織の横浜レースクラブ(当時)がイギリス人が主体で発足しました。
根岸競馬場は1周1764mの右回り、幅員は28.8mありました。スタート直後に急坂を下り、その後は向正面まで上るタフなコース形態で、コーナーは総じて急です。
記念すべき第1回競馬は1866年12月6日、日本在来馬や中国産ポニーによる8競走が行われました。これ以降、根岸競馬場ではおよそ毎年、春秋の2回、競馬が開催されることになります。
根岸競馬場から日本競馬会横浜競馬場に改称
なお、1936(昭和11)年12月、日本競馬会(JRA)が設立され、全国に11あった公認競馬倶楽部が一本化されました。根岸の日本レース倶楽部も翌37年10月に吸収され、競馬場名は日本競馬会横浜競馬場に変更。
そして、1939(昭和14)年4月29日、第1回・横浜農林省賞典四歳呼馬(よんさいよびうま)競走(現在の皐月賞、1850m)が開催されました。初代勝ち馬はロツクパークでした。
根岸競馬場は国内の競馬のルーツとなった
日本競馬史上初のクラシック三冠馬セントライトは、1941(昭和16)年、横浜競馬場でデビュー。2連勝で1冠目(皐月賞)を手にしています。国内最初の三冠馬もまた、根岸の地から生まれていました。
なお、由緒ある天皇賞のルーツも、1880(明治13)年春季に根岸で行われた「MIKADO’S VASE RACE」に遡ることができます。
現代地図に見る根岸競馬場
競馬場は、1942年に「軍港が一望できる」という理由で海軍省が接収。戦後は米軍に接収され、宅地やゴルフ場などに使われていましたが、大部分は1969年に返還されました。
1977年、敷地の大半を根岸森林公園として整備されました。路線バスが走るバス通りが、かつての本馬場。ゴールや厩舎地区付近は、米軍施設が建ったままです。
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