更新日: 2024年1月14日
諸葛亮の北伐~漢王朝復興のため5度にわたり魏討伐に出陣~
曹操(そうそう)に次いで劉備(りゅうび)が白帝城(はくていじょう)に没し、三国の争いの中心は蜀の諸葛亮(しょかつりょう)へと移っていきます。
劉備からその子・劉禅(りゅうぜん)と漢王朝再興を託された諸葛亮は国力の回復に尽力すると、速やかに呉と同盟を結び直し、225年、たびたび反乱を起こしていた南中を自ら大軍を率いて平定します。
後顧の憂いを断った諸葛亮は蜀漢の悲願である漢王朝復興のため、劉禅に自らの決意をしたためた「出師(すいし)の表(ひょう)」を奉り、魏討伐に出陣しました。以後、五次にわたる北伐が行なわれることとなります。
目次
【諸葛亮の北伐】劉備没後の混乱を突いた反乱を鎮圧し蜀は国力を強化
劉備の没後、国力の回復に努め、呉との同盟も復活させた諸葛亮は、225年3月、南中へ出陣して諸反乱を鎮圧すると、孟獲を降して南中の統治を彼ら在地豪族に委ね、その年の内に帰国しました。
諸葛亮による南中の制圧
劉備没後の蜀では、その混乱に乗じて益州(えきしゅう)南部の南中(なんちゅう)で反乱が続発します。とくに益州郡の雍闓(ようがい)は呉と通じており、さらに南中の豪族・孟獲(もうかく)と結んでいました。しかし夷陵の戦いで大損害を受けた蜀には反乱を制圧できるだけの兵力がありません。そこで諸葛亮(しょかつりょう)は守勢に回って防ぎながら、国内各地で治水工事を行なって農業生産力を高めるなど国力回復を優先しました。
こうして内政を立て直した諸葛亮は、224年に再び呉との同盟を結んで後顧の憂いを断つと、翌年3月に南中制圧に自ら乗り出します。
各地で蜀軍が次々と反乱を鎮圧していくなか、反乱軍内部で仲間割れが起こり、雍闓が異民族の高定(こうてい)に殺害されます。諸葛亮はこの高定の反乱を鎮圧すると、それに与していた孟獲も帰順させ、南中平定を終えました。
経済回復をもたらした南中平定
諸葛亮はなぜ自ら出陣するほど、南中平定に力を注いだのでしょうか。実はこの地は塩や鉄、金銀などの鉱物資源に恵まれており、これらを収奪して持ち帰り蜀の経済を潤わせたのでした。また、永昌(えいしょう)は南海交易の交易都市であったため、貿易航路を抑える目的もあったとされます。
しかも諸葛亮はこの時、南中の統治をそのまま孟獲ら在地豪族に委ねます。後漢と同じ異民族に対する融和政策を踏まえたものですが、おかげで南中の人心を掌握でき、南中支配に必要な蜀の経済的負担の軽減にもつながったといいます。
こうして蜀は劉備没後の混乱から脱したのでした。
【南中の反乱注目の武将】孟獲とはどんな武将?
南蛮(なんばん)の王。蛮人にも漢人にも心服される人物でしたが、劉備の没後、呉と結んだ雍闓に呼応して蜀に対する反乱を起こしました。演義では鎮圧にやってきた諸葛亮に対して7度にわたって挑むもすべて敗れて心服しています。蜀への降伏後、南中の統治を任されました。
【南中の反乱】三国志演義では?
南中の豪族・孟獲は、南蛮の王として登場し、強烈なインパクトを与えます。諸葛亮は孟獲を心服させるため、7回捕らえ、7回放ったという逸話があり、演義では孟獲が朶思大王(だしだいおう)・木鹿(ぼくろく)大王・兀突骨(ごつとつこつ)ら南蛮の豪族たちと組んで、何度も諸葛亮に挑んでは敗れる話が展開されます。
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