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夷陵の戦い~関羽の復讐に燃える劉備~

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

夷陵の戦い~関羽の復讐に燃える劉備~

200年の官渡(かんと)の戦いを制した曹操は、その後袁紹(えんしょう)の息子たちを滅ぼし、207年までに河北を掌握し、群雄のなかで随一の実力を手にしました。曹操は次の目標を荊州、そして孫家(そんけ)の支配する呉(ご)と定めて南下を開始します。

この頃、荊州の劉表(りゅうひょう)の下にあった劉備は、荊州名士(めいし)の間で評価を高めていた諸葛亮(しょかつりょう)を陣営に迎えて天下三分を基本戦略と定め、まずは曹操の南下を撃退すべく、孫権(そんけん)との同盟を締結します。

ここに三国成立の契機となる赤壁(せきへき)の戦いを迎えます。

関羽の復讐に燃える劉備、陸遜の策の前に致命的大敗を喫します。

【夷陵の戦い】長大な陣が仇となった蜀軍

221年、蜀漢(しょくかん)の皇帝を名乗った劉備(りゅうび)は、関羽(かんう)の復讐と荊州(けいしゅう)奪回に燃え、呉へ侵攻します。趙雲(ちょううん)ら群臣が反対し、張飛(ちょうひ)が家臣に暗殺される事態にも見舞われますが、それでも劉備は出陣を強行しました。

劉備軍は呉の先発隊を撃破し長江沿いを夷陵(いりょう)へと進軍。翌年には劉備自ら陣を布きました。

呉は大都督(だいととく)の陸遜(りくそん)が5万の兵でこれを迎え撃ちます。ただし、陸遜は劉備の挑発に乗らず持久戦に持ち込んだため、両軍のにらみ合いは半年以上続きました。

この時、劉備は巫(ふ)から夷陵の間にかけて50以上の陣地を築いたのですが、これが仇となってしまいます。

6月、蜀軍の油断を見た陸遜が、総攻撃に打って出たのです。乾燥した茅を持った兵が一斉に蜀の陣に火をかけると、蜀軍に一気に襲い掛かります。大混乱となった蜀軍は40余りの陣地を奪われた上、馬良(ばりょう)や張南(ちょうなん)ら将も含めて数万が討ち取られ壊滅的打撃を受けました。

【夷陵の戦い注目の武将】陸遜とはどんな武将?

「呉の四姓」の筆頭である陸氏の傍系に生まれ、のち一族の長となりました。孫権に出仕後軍歴を重ね、呂蒙に従って荊州奪還に貢献。劉備の侵攻に際して大都督に任ぜられましたが、孫堅以来の宿将たちが命に服さないため、剣を手にかけて命を順守させたとされます。その後陸遜は長期戦に持ち込むと、火攻めを仕掛けて夷陵の大勝利を得ました。

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