更新日: 2024年1月13日
猿島は東京の軍事要塞だった!東京湾最大の自然島の歴史を追う~神奈川の産業・文化~
横須賀にある三笠公園の沖合2㎞弱に浮かぶ猿島は、東京湾で唯一の自然島。かつて首都東京(江戸)を守る軍事要塞の役目を担っていました。
この周囲1.6㎞ほどの小さな無人島が脚光を浴びたのは幕末。開国の世にあるわが国にあって、その位置関係から東京湾の海防拠点とされました。
レジャーアイランドとなった猿島の、現在までの歴史を追います。
猿島は「東京湾要塞」として砲台が設置された
猿島に台場(砲台)の建設が決まり、1881(明治14)年に起工。海軍から陸軍へ移管されたのちの1884(明治17)年に「東京湾要塞」の猿島砲台として竣工、第一砲台に2㎝加農砲2砲座2門、第二砲台に24㎝加農砲4砲座4門などが設置されました。これは国内最古級の近代砲台で、目的は東京湾内湾への敵艦船の侵入阻止、横須賀鎮守府や横須賀海軍工廠の存在する横須賀・長浦両軍港の防御でした。
島のほぼ中心を貫くように切通の道路が整備され、トンネルも複数あります。道路の両脇には、兵舎や弾薬庫などのレンガ建造物が建設されました。詳細は公表されていませんが、地下室もあります。
これらの建物やトンネルの一部は、現在の日本では希少なレンガづくりであるフランス積み(フランドル積み)が採用されています。また、明治時代中頃には、観測所や電灯所、発電所などが増設されていますが、これらはオランダ積みを採用しました。ひとつの遺跡で異なるレンガ組積造を見られるのもめずらしいポイントです。
難工事を極めた第三海堡とは?
猿島の沖合には「第三海堡」が置かれていました。海堡とは、砲台などを設置するために海上に築かれた人工島のことです。1878(明治11)年に日本各地に砲台の建設が決まり、東京湾には富津岬と三浦半島のあいだに3カ所の海堡が必要とされました。
第一、第二海堡は比較的浅瀬につくられましたが、第三海堡は水深39mと深いうえに地盤も弱く難工事となりました。苦労の末に設置された堤防は高波により何度も破壊され、関東大震災で壊滅的な被害を受けました。暗礁となった第三海堡は船舶の往来の大きな障害となったため、現在は撤去されています。
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