更新日: 2024年1月14日
夏侯淵のみとなった寒中へ侵攻す曹操を撃退~定軍山の戦い~
200年の官渡(かんと)の戦いを制した曹操は、その後袁紹(えんしょう)の息子たちを滅ぼし、207年までに河北を掌握し、群雄のなかで随一の実力を手にしました。曹操は次の目標を荊州、そして孫家(そんけ)の支配する呉(ご)と定めて南下を開始します。
この頃、荊州の劉表(りゅうひょう)の下にあった劉備は、荊州名士(めいし)の間で評価を高めていた諸葛亮(しょかつりょう)を陣営に迎えて天下三分を基本戦略と定め、まずは曹操の南下を撃退すべく、孫権(そんけん)との同盟を締結します。
ここに三国成立の契機となる赤壁(せきへき)の戦いを迎えます。
劉備軍、曹操のいない隙に漢中へ侵攻し、夏侯淵を討ちました。
夏侯淵は定軍山に進出した劉備軍に討ち取られる
孫権(そんけん)の方針転換を知らない劉備(りゅうび)は217年、曹操(そうそう)が制圧した漢中(かんちゅう)奪取を計画します。曹操が漢中に夏侯淵(かこうえん)を残して帰還したのち、劉備は張飛(ちょうひ)らを下弁へと侵攻させます。
張飛らは固山に移って陽動作戦に出ますが、曹操軍の曹洪(そうこう)に見破られてしまい、逆に下弁(かべん)で孤立した呉蘭(ごらん)が討ち取られてしまいます。
下弁の戦いは劉備の敗戦に終わりましたが、劉備自らの軍は陽平関(ようへいかん)から撤退せず、219年には定軍山(ていぐんざん)に進出します。
そこでは劉備軍は陽動作戦で敵の夏侯淵の軍を分散。そのうえで黄忠(こうちゅう)が高所から陣太鼓を鳴らして気勢を挙げ、坂を駆け下って夏侯淵の部隊になだれ込み、夏侯淵を討ち取ったとされます。あるいは隙をついて夏侯淵を討ち取ったともいわれています。
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