更新日: 2024年1月14日
曹操の兵法書と『三国志演義』に登場する「孟徳新書」
『三国志演義』に登場する『孟徳新書』は、曹操の著作である『接要』を元ネタとします。日本の三国志作品である吉川英治『三国志』と横山光輝『三国志』では、その後の扱いが異なっています。
◉曹操は孫子に注釈を行なうなどした三国一の兵法家です。
◉曹操の『接要』が『孟徳新書』の起源。
◉横山『三国志』と吉川『三国志』で『孟徳新書』のその後が異なります。
曹操の兵法書「兵書接要」が「孟徳新書」の起源
劉備(りゅうび)の入蜀は、良い君主を得たいと願う劉璋(りゅうしょう)の臣下である張松(ちょうしょう)や法正(ほうせい)の画策により実現しました。張松は、はじめ曹操(そうそう)への使者となったが辱められます。『三国志演義』は、それを曹操の兵法書である『孟徳新書(もうとくしんしょ)』を巡る確執として描きました。
曹操は、三国一の兵法家で、群書を博覽し、とくに兵法を好みました。諸家の兵法を抜き集めて、『接要(せつよう)』と名づけます。また、『孫武(そんぶ)』十三篇(いわゆる『孫子』)に注釈を加え、みな世に伝えられている、と『三国志』の注に引く孫盛(そんせい)の『異同雑語(いどうざつご)』は記します。事実、『隋書(ずいしょ)』経籍志(図書目録)によれば、『孫子兵法』(呉将の孫武の撰、魏武帝〈曹操〉の注)、『兵書接要』(魏武帝の撰)などが、唐代には存在していました。前者は、『魏武注孫子(ぎぶちゅうそんし)』として、江戸時代に広く読まれます。そして、後者の『兵書接要』が『孟徳新書(もうとくしんしょ)』の起源です。
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