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更新日: 2024年9月2日
【赤壁の戦い】業火が曹操の水軍を焼き尽くした三国志最大の戦い
200年の官渡(かんと)の戦いを制した曹操は、その後袁紹(えんしょう)の息子たちを滅ぼし、207年までに河北を掌握し、群雄のなかで随一の実力を手にしました。曹操は次の目標を荊州、そして孫家(そんけ)の支配する呉(ご)と定めて南下を開始します。
この頃、荊州の劉表(りゅうひょう)の下にあった劉備は、荊州名士(めいし)の間で評価を高めていた諸葛亮(しょかつりょう)を陣営に迎えて天下三分を基本戦略と定め、まずは曹操の南下を撃退すべく、孫権(そんけん)との同盟を締結します。
ここに三国成立の契機となる赤壁(せきへき)の戦いを迎えます。
緒戦に勝利して陸口を抑えた呉は、膠着状態になると黄蓋が、魏に降伏したい意の偽の手紙を送って近づき、魏の船に火をかける計略を実行。火は岸辺にある軍営をも焼き尽くし、曹操軍を壊滅させました。
目次
【赤壁の戦い】長江沿岸でにらみ合う両軍
開戦を決意した孫権(そんけん)は208年、劉備(りゅうび)とともに曹操(そうそう)の数十万の軍勢と長江沿岸の赤壁で激突します。
これが「赤壁(せきへき)の戦い」です。
緒戦は呉が陸口(りくこう)を抑えることに成功。これにより曹操は不慣れな水上戦で戦わざるを得なくなります。曹操は烏林(うりん)に、呉の水軍はその南岸の赤壁に陣を構えたものの、膠着状態が続きます。
なぜなら曹操軍の陣中では、周瑜(しゅうゆ)の予想通り疫病が蔓延し、決戦どころではなくなっていたのです。
一方の周瑜、黄蓋(こうがい)、甘寧(かんねい)らが率いる呉も水軍の兵が3万しかなく、数十万の曹操軍に挑む決定打がありませんでした。
【赤壁の戦い注目の武将】周瑜とはどんな武将?
揚州随一の名家の出で、美しい容姿から「美周郎」と呼ばれました。音楽にも精通し、酒に酔っていても演奏の音の僅かな間違いに気付いたという逸話が伝わります。孫策・孫権に仕えて軍務を担当し、曹操の南下に対して強硬論を説いて孫権を説得し、赤壁の戦いの大勝を呼びました。
※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。
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