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東海道の整備による神奈川県域の発展と飢饉による荒廃
県下の街道が人々の往来で賑わうと、宿場町は潤い、また、街道にほど近い沿岸部の港町は発展し、大消費地・江戸への漁獲物供給地としても機能するようになります。
さらに、漆器などの地場産業が興り、現代の神奈川県にも通じる独自文化が徐々に形成されていきました。
県東部(川崎、横浜、横須賀)では新田開発も積極的に行われて石高を増やしていきますが、1782年に天明の大飢饉が起きると一揆や打ち壊しが相次ぐようになり、県内の各所は荒廃。1787年には、県内で最大規模の百姓一揆(土平治騒動(どへいじそうどう))が起きてしまいます。
開国は黒船の来航によるペリー提督の要求
人々の生活が困窮するなか、1853年にはペリー提督の率いるアメリカ艦隊が東京湾に姿を現します。
北米大陸東岸の大西洋に面した地域に建国したアメリカは、西へ西へと領土を拡張していき、この頃には西部は太平洋と接するようになっていました。アメリカは環太平洋戦略の一環として、日本を貿易船や捕鯨船の寄港地とするべく、幕府に開国を要求しました。
黒船は東京湾で示威行為を繰り返し、幕府は武力に屈するかたちでペリーと面会することになり、その場所として選定されたのが久里浜(横須賀市)です。ペリーの要求(江戸上陸)と幕府の主張(長崎での面会)の折衷案として久里浜が選ばれたのです。この頃の久里浜は小さな漁村でしたが、近くの浦賀には有事に備えて砲台が設置されていたことも大きな理由です。
開国と国際貿易港としての横浜の発展
結局、幕府は1854年にアメリカと日米和親条約を締結。1858年には日米修好通商条約を結び、開港場として函館、新潟、神戸、長崎、そして横浜の5港が選ばれました。以降、横浜は国際貿易港として大いに発展していくことになります。
開国・国際化を契機とする幕末の動乱
開国時に東海道沿いの神奈川湊ではなく街道から外れた横浜が開港場に選ばれたのは、幕府が日本人と外国人の交流を避けたかったためです。
事実、外国人排斥を訴える攘夷思想は広がりを見せていき、1862年には武蔵国橘樹郡生麦村(横浜市鶴見区生麦)で薩摩藩士がイギリス人を斬りつける事件が発生。この事件をひとつのきっかけとして、同年には薩英戦争が起きます。
開国という国際化の途上でさまざまな混乱を経て、神奈川は混迷の内に幕末を迎えるのでした。
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