更新日: 2024年1月13日
小田原城ー難攻不落の城と豊臣秀吉による石垣山一夜城
上杉謙信や武田信玄でも攻め落とせなかった小田原城が、豊臣秀吉の前では無血開城するしかありませんでした。
難攻不落の城を落とした秀吉の秘策とは何だったのでしょうか?
小田原城への侵攻①:上杉謙信
後北条氏が版図を拡大すると、関東の旧勢力はいっせいに反発しました。しかし、後北条氏の勢いを止めることはできず、関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲政(うえすぎのりまさ)は敗北し、越後の長尾景虎(ながおかげとら)(上杉謙信)を頼って落ち延びました。かくして景虎は、関東への出兵を繰り返すようになります。
1561年、関東の諸将を糾合した景虎は、およそ10万ともいわれる軍勢を率い、小田原城を包囲しました。なお、この戦いの最中、景虎は鶴岡八幡宮(鎌倉市雪ノ下)で上杉の家督と関東管領職を継承し、名乗りを上杉政虎(まさとら)に改めています(のちに出家して謙信)。
この戦いは長期化し、結局、上杉軍は小田原城を落とすことはできずに撤退していったのです。
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