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尾張徳川家が成立した尾張と19藩52家が林立した三河違いとは? 徳川美術館

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

尾張徳川家が成立した尾張と19藩52家が林立した三河違いとは?

尾張には尾張藩が成立し、三河には小藩が林立。
江戸時代、尾張と三河は別々の道を歩み、それぞれが独自の文化を育んでいくことになりました。

尾張徳川家は「徳川御三家」のひとつ

江戸時代になると、徳川家康の九男・義直(よしなお)が尾張藩62万石の初代藩主になりました。義直を祖とする尾張徳川家は、紀州徳川家、水戸徳川家と並び「徳川御三家」に定められ、徳川宗家の血脈が途絶えたときには将軍を出し、徳川の血脈を守る使命が与えられていたのです。

最高格式の尾張藩だったが将軍は出ることはなかった

とりわけ尾張徳川家は御三家の筆頭格で、諸大名のなかでも最高の格式に位置づけられたものの、実際には将軍を出すことはありませんでした。

7代将軍・家継が危篤に陥った際には、尾張藩6代藩主・継友(つぐとも)が将軍候補となるものの、徳川吉宗との権力闘争に敗れ、将軍位は紀州徳川家が継承しています。

尾張徳川家7代藩主・徳川宗春の藩政による一盛一衰

ですが、幕政と距離を置けたことで、尾張藩は藩政に集中できました。

1730(享保15)年、徳川宗春が継友の跡を継いで7代藩主になります。この当時、8代将軍・吉宗の掲げた財政再建改革(享保の改革)により、世間は倹約ムード一色でした。ところが宗春は、幕府の緊縮財政に歯向かうかのように、財政出動や規制緩和策を打ち出しました。芝居や祭りを奨励し、遊郭を公認し、藩士の芝居見物も許可しました。宗春の経済政策によって名古屋の城下町は繁栄したのです。

しかし、その栄華は長続きしませんでした。次第に藩財政が悪化すると、宗春を疎ましく思う幕府老中と尾張藩内の反宗春派の重臣たちが結託し、クーデターを起こしました。結果、宗春は謹慎処分となってしまいます。とはいえ、宗春時代の施策によって、尾張独自の文化が近世に花開いていったのはまぎれもない事実でした。

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