更新日: 2024年1月14日
桶狭間の地形から知る“桶狭間の戦い” 織田が今川を撃破した奇襲作戦とは?
織田信長が今川義元を討った桶狭間の戦いは、尾張国内の支配権をめぐる争いだった!?
周辺の地形から、桶狭間の戦いの実像を探っていきましょう。
戦いはなぜ桶狭間で行われた?
1560(永禄3)年、織田信長は桶狭間(豊明市)で駿河守護・今川義元と交戦に及び、今川義元の首級を挙げました。いわゆる「桶狭間の戦い」です。「日本三大奇襲戦」のひとつに数えられるほど有名なこの合戦は、どのような経緯で始まったのかを、周辺の地形と合わせて見ていきましょう。
戦前の桶狭間周辺の情勢
もともと今川氏と織田氏は小豆坂(あずきざか)(岡崎市)や安祥(あんじょう)(安城市)でたびたび争ってきましたが、1551(天文20)年に織田信秀が死去して信長が家督を継ぐと情勢が変化しました。
鳴海城(なるみじょう)(名古屋市緑区)と笠寺城(名古屋市南区)を支配していた山口教継(やまぐちのりつぐ)は信秀を恐れて織田氏に従っていましたが、信秀の死を契機に今川方に寝返ったのです。
また、山口教継の調略で大高城(名古屋市緑区)も今川方に降ると、尾張中部と知多半島は分断される格好となってしまいました。
信長は家中の内紛(実弟・信勝(のぶかつ)の謀叛)を収めて国内問題を解決するかたわら、この鳴海城と大高城への対策にも着手します。鳴海城攻略の付城(つけじろ)(敵城攻略用の砦)を丹下(たんげ)、善照寺(ぜんしょうじ)、中嶋(なかしま)に築き、さらに大高城攻略の付城を丸根(まるね)と鷲津(わしづ)に築きました。
こうした信長の反攻作戦に今川義元が反応し、対織田の軍を興したことから桶狭間の戦いは始まります。
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