更新日: 2024年1月14日
三河国と尾張国は応仁の乱で大きく動かされた!最大の激戦は三河国の守護職争いだった!?
応仁の乱は、中央での権力争いに端を発し全国に波及しました。
尾張国や三河国もその影響から逃れることはできず、未曾有の混乱が引き起こされました。
応仁の乱のはじまり
応仁の乱は室町時代後期に起きた内乱です。1467(応仁元)年から1478(文明9)年まで足かけ11年続いたことから「応仁・文明の乱」とも呼ばれています。
この内乱は、足利将軍家の後継問題と管領畠山家の家督争いに端を発し、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)の森(京都府京都市上京区)で合戦が勃発。乱は日本全国に波及し、各地で東軍(細川勝元(ほそかわかつもと)方)か西軍(山名宗全(やまなそうぜん)方)に分かれて争うようになり、この応仁の乱と明応の政変(将軍の擁廃立事件)が引き金となって戦国時代が始まったとされています。
「応仁の乱」初期のおもな国内勢力図
全国規模での争いとなった応仁の乱。愛知県付近は、尾張・遠江・越前の守護を斯波義廉(西軍)、美濃の守護を土岐成頼(西軍)、三河の守護を細川成之(東軍)が務めていました。
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