更新日: 2024年9月30日
相模国の国府は?相模国分寺と海老名の関係~神奈川県の歴史~
古代の相模国において、海老名は特別な場所でした。
では、かつての海老名にいったい何があったのでしょうか?
海老名の特殊性について見ていきましょう。
武蔵国と相模国の成立と三遷した相模国府
大化の改新(645年)でヤマト王権が中央集権化を進める過程において、現在の神奈川県域には武蔵国と相模国が成立しました。県東部(ほぼ横浜市と川崎市全域)は武蔵国の一部となり、それより西の地域は相模国に編入されたのです。
行政単位としての国が設置されると、首長である国司(こくし)が任命され、国司が政務をとる政庁(国衙(こくが))、すなわち国府(こくふ)が定められます。
ところが相模国の場合、日本で唯一、現在に至るまでに国府の所在地が特定されていません(武蔵国の国府は東京都府中市)。というのも、相模国の国府は三遷したために、所在地があやふやになってしまっているのです。
三遷した場所についても諸説ありますが、有力な説としては、まず最初に高座郡(海老名市国分)に国府が置かれ、次に9~10世紀頃には大住郡(平塚市四ノ宮もしくは伊勢原市三輪)へと移り、そして12世紀以降は余綾郡(大磯町国府本郷)へ移転したとされています。
相模国8郡・武蔵国3郡と国府推定地
大化の改新後、現在の神奈川県域は相模国8郡と武蔵国3郡に区分されました。武蔵国の国府が府中であったのに対し、相模国のそれは三遷したと見られています。
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