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江戸歌舞伎初期の上演形態

江戸初期に歌舞伎や人形浄瑠璃などの上演は、現在の日本橋界隈の堺町、葦屋町、木挽町に限られ、中村座、市村座、森田座、山村座が常設小屋での上演を許されていました。

現在の山村座跡周辺

現在の山村座跡周辺

山村座なき後、浅草移転を命じられるまで森田座が木挽町(現在の銀座6丁目付近)で芝居を続けました。

江戸歌舞伎の人気と「江戸っ子気質」

江戸歌舞伎の人気の高まりは、いわゆる「江戸っ子気質」と関係があるようです。

江戸は、地理的、人口的に拡大していくなかで、経済も発展していきます。それまでは上方文化に圧倒されていましたが、洒落本や黄表紙(きびょうし)、川柳に狂歌(きょうか)、浮世絵などで江戸の町人文化が開化。「粋(いき)」という美意識と、それに基づく行動原理の「通」がもてはやされるようになります。

そこへ、人間のこまやかな情愛を描く上方歌舞伎とは趣の異なる、「勧進帳(かんじんちょう)」や「暫(しばらく)」に見られる、男性が憧れる男性像を描く江戸歌舞伎が登場します。気前が良くて正義感あふれる江戸っ子に、大いに受け入れられたのです。

江戸歌舞伎三座の移転と「大衆娯楽の町」浅草の発展

天保の改革で水野忠邦が出した倹約令によって、天保12(1842)年、当時の江戸三座であった中村座、市村座、森田座は、江戸の中心から離れた浅草の猿若町へ移されました。が、かえってその結果、吉原もあった浅草に人の大きな流れができ、大衆娯楽の町としてますます栄えてゆくこととなります。

江戸歌舞伎が江戸の大衆文化の頂点に!「千両役者」も誕生

江戸歌舞伎が江戸の大衆文化の頂点になると、人気役者には熱狂的なファンができ、衣装や髪型、帯の結び方まで真似する者がいたようです。歌舞伎役者は1年契約で、座元は人気役者を獲得するために大金を用意しました。「千両役者」という言葉がありますが、まさにその額を手にしていた役者は何人もいたといいます。

江戸歌舞伎の演目となり注目を浴びた「江島生島事件」

絶大な人気となり、人々にとって身近な文化となった江戸歌舞伎だけに、関連するエピソードがいろいろと残されています。なかでも、「大奥最大のスキャンダル」とまでいわれるのが、江島生島(えじまいくしま)事件です。

江戸歌舞伎の人気を利用?江島生島事件とは

6代将軍・家宣の側室で7代・家継の生母となった月光院に仕える大奥の大年寄、江島。大年寄は男性では老中に匹敵する重職です。江島が正徳4(1714)年、月光院の名代として家宣の墓に詣でました。その帰途、懇意の呉服商の案内で木挽町の山村座で生島新五郎の芝居を見物。その後、生島らを招いて宴会を催しますが、大奥の門限に遅れてしまいます。

相手が大年寄であっても門限には厳しい江戸城。この騒ぎが問題となり、評定所の審議で江島と生島の密会が疑われる事態になります。

結果、江島には島流しの沙汰が下るも、月光院の嘆願で信州高遠(たかとお)藩に追放。江島の義兄は監督不行届で斬首。生島と山村座座元は島流しとなり、山村座は廃座。関係者千人余りが処罰されました。実は、月光院派と対立していた、家宣正室の天英院や老中が、裏で事件を仕組んだ可能性が高いとされています。

皮肉な話ですが、この事件が一般に知られるのは、歌舞伎の演目にされたのがきっかけ。大正時代になってのことでした。

江戸歌舞伎の「最後の花形役者」三代目澤村田之助

江戸歌舞伎における「最後の花形役者」 ともいわれるのが、類い稀な美貌の女形で人気を博した三代目澤村田之助(さわむらたのすけ)。その人気の過熱ぶりは凄まじく、絵草紙屋の役者絵(現代でいうアイドルの生写真)の7割が田之助のものとなり、「田之助髷(まげ)」「田之助紅」「田之助下駄」などが江戸で大流行しました。

江戸歌舞伎不動の人気役者となった三代目澤村田之助

弘化2(1845)年に歌舞伎役者の次男として生まれた田之助。天保の改革で江戸の芝居町は取り潰(つぶ)されかけたものの改革が失敗に終わり、贅沢を禁じた幕府に対する不満から江戸市民が解放された頃、田之助は3歳で初舞台を踏みます。

5、6歳で天才子役ぶりを発揮し、二代目が自殺未遂を経て30代の若さで亡くなったのをきっかけに、15歳で三代目として名跡を継ぎます。翌年には異例のスピード昇進で立女形に。6年間にわたり人気役者として不動の座に君臨しました。

江戸歌舞伎の人気役者・三代目澤村田之助の不運と不屈の役者魂

と、ここまでは順風満帆の田之助でしたが、21歳のとき、舞台の最中に落ちていた釘を踏み抜く事故にあいます。

医者嫌いでしばらく放置していましたが、痛みに耐えきれず医者を訪ねたところ「脱疽(だっそ)」であることが判明。つまり、手足が壊死(えし)する病で、治療法は壊死した部分を切断するしかありません。身体の一部を失うことは役者生命の終わりを意味しかねませんが、美貌の人気役者は何としてでも生きて舞台に立つことを選びます。

横浜にいた宣教医ヘボンが執刀し、大政奉還直前に田之助は右足を失いました。それでも舞台に復帰すると、台本の書き換えや小道具、さらには、日本最初といわれる義足を用い、持ち前の役者魂でファンを魅了してみせたのです。

江戸歌舞伎の人気役者・三代目澤村田之助の短くも波瀾に富んだ人生

しかし、彼の試練はそれだけではすみませんでした。3年後には左足を、その後、右の手首から先、左手の小指を除く四本の指を手術で失ってしまったのです。

28歳になった田之助が引退作のつもりで出演したのが、河黙阿弥(かわたけもくあみ)の 「国性爺姿真鏡(こくせんやすがたのうつしえ)」。近松門左衛門の「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」の舞台をロンドンに移し替えた現代劇で、時代はすでに明治に移っており、彼が演じたのはイギリス人の妾となった、かつての芸妓でした。

その後、5年間も舞台に立ち続けますが、田之助は精神に異常をきたした末、明治11(1878)年に34歳(33歳という説も)で他界しました。幕末から明治にかけての激動の転換期。その短くも波瀾に富んだ人生が、まるで時代を象徴するような役者でした。

江戸歌舞伎に訪れた変化!「演劇改良会」とは

明治になると、江戸歌舞伎に大きな変化が起こります。政府主導で発足した「演劇改良会」によって歌舞伎の西洋化・近代化を図られたからです。高い身分の者や外国人を意識し、本来の江戸歌舞伎とかけ離れた理想を掲げたのも、幕末の不平等条約の改正に向けた欧化政策の一環でした。

ところが、条約改正は失敗、経済不況もあって政策は頓挫。西洋思想が下火となり、同会は衰退しました。

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