更新日: 2024年1月14日
大政奉還した徳川慶喜だったが思惑が外れた?!~王政復古の大号令により廃止された江戸幕府~
幕府への不満が強く尊王攘夷思想が広がるなか、薩長同盟、幕府の長州征伐の失敗、孝明天皇の急死。
将軍・徳川慶喜は大政奉還し、徳川幕府は終焉しました。
目次
大政奉還前の徳川幕府と薩長同盟
安政7(1860)年の桜田門外の変で権威が落ちた徳川幕府ですが、元治元(1864)年に長州藩が起こした京都御所・蛤御門(はまぐりごもん)の変に対して、長州征伐を行い幕府の力を誇示しました。
しかし、慶応2(1866)年1月に薩摩と長州はそれまでの敵対関係を解消して同盟関係を結びました。この背景には、両藩が共通の経験をしたことがあげられます。
薩摩藩の薩英戦争や長州藩の下関戦争を通じて西洋列強の強さを痛感し、このままでは日本は侵略を許してしまう、外国勢に対応するには徳川を超える政治体制を築くことが必要であると痛感しました。それには、武力をもってでも幕府を倒して強い政治体制を築くことが必要である、と一致していました。
薩長同盟後の2度目の長州征伐の途中、将軍・家茂は21歳で死去し、結果として長州征伐は失敗に終わりました。
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