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【東京に伝わる伝説】小塚原刑場跡の言い伝え(東京都荒川区)

磔、火あぶり、獄門、斬首の刑。小塚原刑場跡は、江戸の2大仕置き場「骨ヶ原」刑場跡です。江戸時代、品川の鈴ヶ森刑場とともに2大仕置き場といわれたのが、奥州街道沿いの千住・小塚原刑場(こつかっぱらけいじょう)です。「浅草はりつけ場」とも呼ばれ、ここでは磔(はりつけ)や火あぶり、獄門、斬首の刑などが行われました。現在は、跡地付近に刑死者の菩提を弔うために建立された、高さ3・6mもの巨大な延命地蔵が建っています。当時、この地蔵の前で罪人の首を切ったことから、「首切地蔵」といわれています。首切地蔵は、1741年建立。もとは貨物線の南側にありましたが、明治時代の敷設工事のため現在地に移転されました。

小塚原刑場跡で起きていたこと

獄門とは、斬首刑の後、はねた首を獄門台に乗せて晒(さら)すこと。小塚原刑場まで運ばれた罪人の首は、見せしめのため罪状を記した捨札(すてふだ)とともに3日2晩晒されました。そのため、小塚原の獄門台前方の田んぼは「睨田(にらみた)」といわれたといいます。当時小塚原刑場(仕置場)付近は人家もなく、田地の一角にありました。

また、小塚原刑場跡には刑死者だけでなく、牢死者や果たし合いで死んだ者など、無数の死骸が埋められました。小塚原刑場が廃止されるまでの220年の間、20万人から40万人近くもの死者が葬られたといいます(諸説あり)。罪人には墓を建てさせなかったので、埋葬とはいえ土をわずかに掘ってその中に放り込んだだけ。小塚原刑場跡のあたりはたくさんの骨が掘り出され、別名「骨ヶ原(こつかぱら)」とも呼ばれました。

小塚原刑場跡と『解体新書』の関わり

首切地蔵近くの小塚原回向院(えこういん)は、両国にある本所回向院の別院です。小塚原の刑死者や牢死者を供養するため、1667(寛文7)年に本所回向院の住職・弟誉義観(ていよぎかん)によって創建されました。小塚原回向院には安政の大獄で処刑された橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎らも葬られています。

またここ小塚原刑場跡は、1771(明和8)年、杉田玄白や中川淳庵(じゅんあん)、前野良沢(りょうた く)らが刑死者の腑分(ふわ)けに立ち会い、『解体新書』の翻訳のきっかけとなったことでも知られています。日本の医学史上に大きな功績を残したとして、観臓記念碑が建立されました。

【東京に伝わる伝説】明暦の大火を伝える両国橋 (東京都墨田区)

火災都市江戸を焼き尽くした「明暦の大火」。明暦の大火をきっかけに架けられたのが両国橋です。「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるように、江戸は火事が非常に多いエリアでした。なかでも、最も被害が大きかったのが、1657(明暦3)年1月18日から19日にかけて起こった明暦の大火です。なんと江戸の町の約60%を焼き尽くしたといいます。

明暦の大火の詳細

最初の火もとについては諸説ありますが、そのひとつは本郷丸山町(文京区)の本妙寺(ほんみょうじ)。美少年にひと目惚れをし、恋わずらいで早世した娘の振袖から出火したという俗説が広まり、通称「振袖火事」ともいわれています。

午後2時頃発生した火事は、おりからの北西風にあおられ、湯島から神田明神を経て江戸の東半分を焼き、翌朝に収まりました。しかし、正午頃に再び小石川の新鷹匠(たかじょう)町(文京区)から出火。水戸藩の屋敷を含む小石川一帯を焼き尽くし、さらに濠を越えて飯田橋から江戸城本丸、二の丸、三の丸にも燃え移りました。このとき、江戸城天守閣も焼け落ちますが再建されず、それ以降その姿を見ることはありません。

夜が更けて、ようやく火も鎮まったかとみえましたが、麹町5丁目付近(千代田区)から再び火の手が上がります。桜田門一帯の大名屋敷や西の丸下の武家屋敷を焼き、芝の海岸まで延焼。江戸の町は焦土と化したのです。

明暦の大火後の都市改造計画

この明暦の大火による死者は、およそ7万人から10万人ともいわれています。とくに、隅田川岸での死傷者が多かったようです。当時、江戸城防備の理由から、隅田川には上流の千住大橋しか架けられていなかったため、逃げ場を失った多くの人々が犠牲になったといいます。

その後、江戸では大がかりな都市改造計画が実行され、1659(万治2)年、隅田川に2番目の橋、両国橋が架けられました。その後、両国橋はこれまで十数回架け替えられ、現在の橋は1932年11月に完成しました。明暦の大火後、隅田川では納涼花火が行われ、多くの人々でにぎわいました。明暦の大火での犠牲者を弔うために創建された「回向院」には、石造明暦大火横死者等供養塔が建てられています。

【東京に伝わる伝説】陸軍被服廠跡の悲劇(東京都墨田区)

関東大震災での未曾有の大惨事、両国にあった陸軍被服廠跡で起こった4万4000人を襲った火災旋風の恐怖は伝説となっています。関東大震災が起きたのは、1923(大正12)年9月1日、午前11時58分。伊豆大島、相模湾を震源としたマグニチュード7・9の大地震が関東地方を襲いました。各地で大きな被害が出ましたが、なかでも東京・本所横網(よこあみ)町の陸軍被服廠跡地(ひふくしょうあとち)では、ここに避難した多くの人々が犠牲となり、地獄絵図とも語り継がれる大惨事となりました。

陸軍被服廠跡地で起こった悲劇

家屋の密集した東京の下町・本所区。当時の家のほとんどは木造でした。さらに昼食時とあって、火を使う家が多かったのです。そのため、地震発生直後、あちこちから一斉に火の手が上がりました。火災から逃れた住民たちが手を取り合い向かったのは、更地になっていた陸軍被服廠跡地でした。「陸軍被服廠跡に行けば助かる」と広まったのでしょうか。2万4000坪の陸軍被服廠跡の敷地は、避難してきた何万もの人と家財道具でぎっしりと埋まったといいます。

そこを襲ったのが凄まじい火炎旋風。午後4時頃、陸軍被服廠跡周辺の火事が家具や荷物に燃え移り、さらに秒速およそ70mという強風が重なって竜巻が起こりました。それは高さ200mにも達し、人も家財道具もすべてを巻き上げ、焼き尽くしたのです。陸軍被服廠跡だけでおよそ4万4000人もの命が失われたといいます。

第一震によって発生した業火は42時間燃え続け、東京の約2分の1が焼失しました。にぎやかに栄えていた両国国技館一帯も焼け野原と化しました。震災の被害は、東京全市で死者5万8104人、行方不明者1万556人。そのうち被害の最も大きかった本所区では、死者4万8393人、行方不明者6105人と、全体の大部分を占めていました。

陸軍被服廠跡地の現在

惨状を呈した陸軍被服廠跡に造られた横網町公園には、1930(昭和5)年、死者約5万8000人の霊を祀る震災記念堂が建設されました。1951(昭和26)年9月には、名称を東京都慰霊堂と改め、第二次世界大戦の空襲で犠牲となった都内戦災犠牲者約10万5000人の霊を奉祀。毎年9月1日と3月10日には慰霊の大法要が執り行われています。東京都慰霊堂の東側には復興記念館があります。現在、横網町公園内には、猛火に包まれ塊となった工場の鉄柱などが展示されています。

また、震災の混乱の中、朝鮮人や中国人の虐殺、さらに「亀戸事件」「甘粕(あまかす)事件」といった社会主義者たちの殺害が警察・憲兵関与のもとで行われたことも記憶にとどめておきたい史実です。

関東大震災が起きた9月1日は「防災の日」として、各地で防災訓練が行われます。2011(平成23)年の東日本大震災は、発生から10年ほど経ちましたがまだ記憶に新しいところです。被災地では火災や津波、ライフラインの寸断から、復興過程における仮設住宅での孤独死など、さまざまな被害が発生します。地震国に暮らす以上、陸軍被服廠跡など過去の被災を風化させず、大地震が発生した場合はどう対応するか、その備えを常に怠らないようにしたいものです。

都立横網町公園

住所
東京都墨田区横網2丁目3-25
交通
JR総武線両国駅からすぐ
料金
復興記念館入館料=無料/

【東京に伝わる伝説】鈴ヶ森刑場跡に伝わる、八百屋お七の哀しい物語(東京都品川区)

鈴ヶ森刑場跡は一途な恋が起こした放火事件の結末で、「八百屋お七」が火あぶりの処刑された場所です。江戸時代、東海道五十三次の最初の宿駅として栄えた品川宿。1651(慶安4)年、この品川宿外れの大井海岸沿いに設置されたのが、鈴ヶ森刑場(すずがもりけいじょう)です。鈴ヶ森刑場跡は廃止される1871(明治4)年まで、220年間のうちになんと10万人から20万人もの罪人が処刑されたといいます。

特筆すべきは、丸橋忠弥や白井権八、白木屋お駒など、芝居や講談でも有名な重罪人で、井原西鶴の『好色五人女』にも書かれた「八百屋お七」が処刑されたのもこの鈴ヶ森刑場跡です。

鈴ヶ森刑場跡で処刑された八百屋お七の罪状とは

1682(天和2)年、江戸の大火事で焼け出された八百屋お七一家は近所の寺に避難しました。そこで八百屋お七は、避難先の寺小姓と恋仲になります。しかし、家が再建されると、ふたりは離ればなれになってしまいます。もう一度火事になれば彼に会えるのではないか。そう考えた八百屋お七は、禁を犯して放火未遂事件を起こしてしまうのです。

当時、放火は殺人より重い罪でした。捕らえられた八百屋お七は、1683(天和3)年3月29日、鈴ヶ森刑場跡で火あぶりの極刑に処されました。大経寺はこの鈴ヶ森刑場で処刑された人々を供養するために建てられた寺です。境内には、八百屋お七の処刑に使用された火あぶりの台や磔(はりつけ)の台、首洗いの井戸が残されており、当時の残酷な刑罰の遺構を目の当たりにすることができます。鈴ヶ森刑場は当時の検地帳によると、間口40間(約73m)、奥行9間(約16m)の細長い区間であったといいます。

鈴ヶ森刑場跡

住所
東京都品川区南大井2丁目5-6大経寺内
交通
京急本線大森海岸駅から徒歩4分
料金
情報なし

【東京に伝わる伝説】高野長英の青山隠れ家(東京都港区)

脱獄、そして逃亡の果ての自害。顔を硝酸で焼き潜伏した蘭学者、高野長英の最期にまつわる伝説です。高級ブランドショップが次々と建ち並ぶ、おしゃれな大人の街、東京・青山。表参道交差点近くには、複合文化施設「スパイラル」が建っています。このモダンな建物の入口に埋め込まれているのが、高野長英(ちょうえい)の最期の地を示す碑です。

非業の死を遂げた幕末の蘭学医・高野長英。高野長英は1804(文化元)年、岩手県水沢に仙台藩水沢留守家の家臣・後藤実慶の三男として生まれました。医者を志し17歳で江戸に出た高野長英は、苦学しながら蘭方医学を学び、22歳のとき長崎へ行ってシーボルトの門下となりました。

再び江戸に戻った高野長英は、町医者として開業。蘭学塾を開くも、1839(天保10)年、著書『夢物語』が幕府の対外政策を批判したとされ、渡辺崋山(かざん)らとともに捕らえられてしまいます。有名な「蛮社(ばんしゃ)の獄」です。

高野長英の数奇な運命

高野長英には永牢(ながろう)(無期懲役)が言い渡され、小伝馬町牢屋敷の獄中で過ごすこととなりました。投獄からおよそ5年、牢屋敷の火災に乗じて高野長英は脱獄(長英が放火させたとの説もある)、全国各地で潜伏を続けます。後に高野長英は顔を硝酸で焼き、人相を変えて江戸に戻ってきました。

今の青山一帯は、江戸時代、青山百人町と呼ばれ、鉄砲百人組の与力(よりき)・同心(どうしん)の住居として支給されていました。高野長英はここの同心組屋敷、小島家の借家を借り(高野長英は、小島氏の持ち家で質屋伊勢屋の離れに隠れ住んでいた)、蘭方医・沢三伯(さわさんぱく)の名で開業。しかし、1850(嘉永3)年10月30日、幕府の役人に隠れ家を襲われ、所持していた脇差(わきざし)で喉をついて自刃しました。ペリーが浦賀に来航するわずか4年前のことです。

高野長英は優れた蘭学者、時代の先覚者でありながら、その生涯はあまりにも数奇なものでした。北青山の善光寺には、高野長英の顕彰碑が建てられています。高野長英の隠れ家、そして最期の地となった跡地には、現在石碑があります。

【東京に伝わる伝説】巣鴨プリズン跡・サンシャインシティの話(東京都豊島区)

A級戦犯7名が絞首刑に処された地、巣鴨プリズン跡。東池袋中央公園の碑に込められた願いがあります。

第二次世界大戦中、日本にパラシュートで降下したアメリカ兵を上官の命令で突き刺してしまった主人公の清水豊松が、戦後進駐軍に逮捕され軍事裁判にかけられる。無実を訴える豊松の言い分は聞き入れられない。ついには絞首刑を言い渡され、「私は貝になりたい」という遺書を残して処刑台の階段を上っていく───。

テレビや映画で知られる『私は貝になりたい』のストーリーですが、ドラマで主人公の豊松が処刑された場所が巣鴨プリズンでした。東京・池袋のランドマークといえば、JR池袋駅の東口にそびえるサンシャイン60。この超高層ビルを中心に周辺地域は、ホテルや水族館、プラネタリウム、劇場などのレジャー施設、専門店街で構成されサンシャインシティと呼ばれ、「新東京百景」にも選ばれています。

このサンシャインシティの北側にあって、街のオアシスのような憩いの場となっているのが東池袋中央公園です。公園の一角には「永久平和を願って」と刻まれた石碑が建っています。そして裏の碑文が、この場所に巣鴨プリズンの処刑台があったことを教えてくれています。

巣鴨プリズンで、A級戦犯7名の刑執行が行われた

巣鴨プリズンの前身にあたる巣鴨監獄は、1895(明治28)年に完成しました。巣鴨プリズンはかつて東京拘置所と呼ばれ、連合国軍に接収されてから最も近代的な監獄に生まれ変わりました。この巣鴨プリズンの開所によって、数多くの「戦争犯罪人」が次々に送り込まれてくることになります。その中には「平和に対する罪」、つまり戦争開始の責任を問われたA級戦犯容疑者の東条英機(とうじょうひでき)(東条英機は、1941年から第40代内閣総理大臣を務めた)ら東条内閣の閣僚28名がいました。

極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判が開廷したのは、1946(昭和21)年5月3日。東条英機らA級戦犯7名に絞首刑の判決が下ったのが、2年半後の1948(昭和23)年11月12日。刑が執行された場所は巣鴨プリズン内に特設された「13階段の処刑台」で、日時は12月23日午前0時1分から35分にかけてだったといいます。東池袋中央公園の石碑は、1980年、処刑が行われた「13」号室の跡地に建立されています。

1945(昭和20)年11月に開所してから、閉鎖される1958(昭和33)年5月までの約13年間、のべ4000人が巣鴨プリズンに収容されました。収容中に刑死したのは、A級戦犯の7名を含めて60名。その役目を終えた巣鴨プリズンはもとの東京拘置所に戻ったのち、葛飾区の小菅に移転し小菅(こすげ)刑務所に変わりました。

多くの戦犯が絞首台の露と消えた場所を示す「永久平和を願って」の碑。戦争がもたらす悲劇を再び繰り返さないためにも、記憶にしっかりとどめておきましょう。

【東京に伝わる伝説】八王子城跡の伝説(東京都八王子市)

豊臣軍に攻められわずか一日で落城した八王子城。城山川を三日三晩赤く染めた滝の悲話です。小田原に本拠を置いた後、北条氏3代当主・氏康(うじやす)の三男氏照(うじてる)が築いた、関東屈指の山城・八王子城。小田原城の支城として築城されたのは、1584(天正12)年から1587(天正15)年の間といわれています。しかし、それから間もない1590(天正18)年6月23日、豊臣秀吉の関東制圧により、前田利家・上杉景勝軍に攻められ、城は未完成のままわずか一日で落城。壮大な八王子城跡の跡地には、当時の悲劇を物語る滝跡があります。

落城時、氏照は小田原城に籠城。城主不在の中、御ご主殿(しゅでん)(城主の館)にいた北条方の奥方や女中、武将たちは滝の上流で自刃し、次々に身を投じたという。その血は城山川を三日三晩にわたって赤く染めた───。

「御主殿の滝」と呼ばれるこの滝は、往時の流れの強さはなく、現在は水量が少ない滝です。その原因は少雨とも、トンネル工事の影響ともいわれていますが、いずれにせよ残念でなりません。落城の悲話が伝わる滝の水量は現在は少なく、当時の姿を見ることはできないのです。

日本100名城となった八王子城跡

八王子城跡は落城400年となる1990(平成2)年には、御主殿の石垣や古道などを整備され、小道から御主殿へ渡るために城山川に架けられた曳橋が復元されています。1992(平成4)年から2年かけて行われた八王子城跡の発掘調査では、ベネチア産レースガラス器や中国で焼かれた陶磁皿など、御主殿跡から約7万点もの貴重な遺物が発見されています。2006(平成18)年4月には、戦国期の山城の状態がよく残っていたことから、日本城郭協会により「日本100名城」に選定されました。後世に伝え残すべく、八王子城跡は日本が誇る重要な文化財に認定されたのです。

堅牢そうな石垣からうかがえる、戦国時代の激戦地の八王子城跡。まだ未完であったとはいえ、八王子城跡地は広大な範囲に及びます。氏照が描いていたその全容は、どれほどの規模だったのでしょうか。八王子城跡には、兄・氏政とともに小田原城下で切腹した北条氏照と家臣の墓が建っています。

八王子城跡

住所
東京都八王子市元八王子町3丁目
交通
JR中央線高尾駅から西東京バスグリーンタウン高尾行きで15分、霊園前下車、徒歩20分
料金
情報なし
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