更新日: 2024年9月9日
東京に伝わる伝説は、日本史の知られざる秘話から始まった
東京の伝説の話をしましょう。だれもが知っているあの場所も多くの人が集まるあの場所も、実は怨念の舞台。時が流れても悲劇の伝説は現代に残っています。
目次
【東京に伝わる伝説】将軍塚の平将門の呪い (東京都千代田区)
東京・大手町に時空を超えて残る空間。1000年前から平将門の怨霊が棲むといわれる将門塚。東京・神田にある神田明神のご祭神、その三の宮が平将門命(たいらのまさかどのみこと)であることをご存じでしょうか。平将門といえば、朝廷に対抗して自らを新皇と称し、関東に独立政権を立てようとした平安時代の武将。承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱で平貞盛、藤原秀郷(ひでさと)らの軍勢に討たれ、940(天慶3)年、38歳で非業の死を遂げます。
平将門の呪いはこうして始まった
平将門の首は京へ送られ、獄門に晒(さら)されましたが、3日後、白い火を放ちながら東方へと飛び去ったといいます。(平将門の首が晒されたのは、京都の三条河原とも神田神宮ともいわれます。)その平将門の首が落ちた場所が、現在オフィスビルが建ち並ぶ東京・大手町。当時は芝崎村といい、神田明神もここにありました。ビルの谷間の木々に取り囲まれるように残された空間、そこが平将門の首を祀った「将門塚」です。
村民は将門塚を築いて平将門の首を埋葬しましたが、それからおよそ360年が過ぎる頃には、将門塚は荒れ果て、周辺では天変地異や疫病が続いたといいました。平将門の呪い、怨霊ではないか。人々がそう恐れる中、1307(徳治2)年、時宗の僧・真教上人が「蓮阿弥陀佛」という法号を授け、平将門の霊を鎮魂。将門塚の前に板石塔婆を建て、時宗寺院・日輪寺(にちりんじ)に供養しました。
そして1309(延慶2)年には、神田明神も平将門公を祭神として合祀(ごうし)しました。1616(元和2)年、江戸幕府により神田明神が江戸城の表鬼門守護神として、現在の場所へ遷座(せんざ)しますが、将門塚はそのまま残されました(明治維新後、神田明神の主祭神が朝敵(ちょうてき)平将門であることが問題となり、1874(明治7)年に将門神社に遷座されますが、1984(昭和59)年には再び神田明神に合祀されました)。
将軍塚の平将門の呪いは、現在も続いている
この将門塚に対して不敬を働けば必ず災いが降りかかるといいます。関東大震災の後、当時の大蔵省が大手町に仮庁舎を建てた際には、関係者の急死や怪我が続きました。また、終戦後にGHQが将門塚を撤去しようとしたところ、ブルドーザーが横転して死者が出たと伝えられています。今でも、周辺のオフィスビルでは、将門塚に向かって背を向けないよう机を配置しているそうです。
将門塚には、こうした話が語られることが多いのです。しかし、周辺の歴史に目を向ければ、江戸から東京の政治や地理の変遷をたどることができます。何しろ今から1000余年前に墳墓が造られた将門塚の場所は、今の大手町一丁目。日本の首都の中心です。毎年9月の彼岸の日には将門塚例祭が行われています。将門塚には、今も線香や花が絶えないといいます。
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