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ティムールは稀代の軍才と冷酷さでティムール朝を統治する半面、文芸を保護し繁栄させた

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年8月16日

ティムールは稀代の軍才と冷酷さでティムール朝を統治する半面、文芸を保護し繁栄させた

ティムール朝は、ティムールが1370年にサマルカンドに打ち建てた単独政権の帝国。ティムールは恐怖心を植え付けるやり方で広大なエリアを統治する半面、商業、芸術を保護し発展させた人物です。

ティムールはモンゴルの掟に従い、ティムール朝を統治した

アラル海に注ぐアム川とシル川に挟まれた地域は、アラビア語でマーワランナフル(マー・ワラー・アンナフル)すなわち「その川(アム川)の彼方」と呼ばれ、中央アジアに珍しく豊富な雪解け水が潤すオアシス密集地帯をなし、古来より豊かな農耕地帯でした。

ティムール(位1370〜1405)が自らの帝都とし、後に世界遺産となるサマルカンドはこの地にあります。前4世紀には、すでにシルクロードの要衝であり中央アジア中心都市として栄えていました。

ティムールとチンギス・ハンの関係

1220年にチンギス・ハンが破壊しましたが、後に再建されティムールが帝国各地から移住させた技術者・職人らが壮麗な建築群を残しました。中央アジア最大級のビビ・ハニム・モスクや自身と家族の眠る霊廟グリ・アミールは、中国陶磁器とペルシャの顔料が出合い生まれたサマルカンドブルーのタイルに覆われ、同市は後世「青の都」と呼ばれるようになります。

14世紀半ば、チンギス・ハンの後モンゴル帝国を成した4大ハン国のひとつ、中央アジアのチャガタイ・ハン国の分裂に乗じてティムールは頭角を現しました。家系はモンゴルの貴種バルラス族に属するが決して有力ではなく、代々チャガタイ家の家臣でチンギス・ハンの子孫でもありませんでした。敵対する有力者を倒し1370年サマルカンドに単独政権を建てると、ティムールはチンギス家の女性と結婚しキュレゲン(婿)を名乗り傀儡のハンを立てて統治に当たります。当時、君主=ハンは、チンギス家の血統でなければならないという掟があったためです。

恐怖統治を行ったティムール

ティムールは中央アジアから西アジア・インドに及ぶ大帝国を築き上げましたが、矢傷から右手・右足が不自由となり敵対者からティムーリ・ラング(足が悪いティムール)と陰口され、西洋では転じてタメルランと呼ばれました。

ティムールはその並外れた軍才とともに史上稀に見る冷酷さでも知られ、1383年イスフィザール反乱鎮圧のときは2000人を生き埋めにし、88年イスファハーンの虐殺では市壁半周のあいだに約1500人分の首の塔が28でき、93年ティグリス河畔ティクリート攻城の際にも首の塔が築かれたといいます。ティムールは恐怖を統治の手段としたのです。

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