更新日: 2024年7月30日
ウマイヤ朝・アッバース朝が輝いたイスラム黄金期とは
ウマイヤ朝が興ったのは、4代目の正統カリフ・アリーが亡くなった後です。ウマイヤ朝が短期間で勢力拡大できたのは何故か。ウマイヤ朝を倒したアッバース朝がイスラム帝国と呼ばれる由縁やアッバース朝で花開いたイスラム文化についても見ていきます。
目次
ウマイヤ朝のカリフは世襲に 帝国は世俗化、不満は増大
アリー(ムハンマド亡き後の4番目のカリフ(後継者・代理人)で最後の正統カリフ)が死ぬとダマスカスを首都にウマイヤ朝を建てたのが、アリーと対立していたムアーウィヤ(位661〜80)でした。
彼はウンマ(イスラム教の共同体のこと)の統一維持に努力し、クルアーン(コーラン)に基づきズィンミーと呼ばれる帝国配下の非ムスリムにも貢納を条件に生命・財産の安全と信教の自由を認めました。品性こそ疑問視されましたが、統治はイスラムの教えに沿っていたのです。しかし死を目前に息子を次期カリフに指名して、世襲すなわちカリフ位のウマイヤ家による独占が始まると、シーア派のみならず後にスンナ派と呼ばれるムスリム主流にもカリフ位の堕落と見なされました。
ウマイヤ朝に不満を募らせていく
ウマイヤ朝のカリフらは征服地を広げ、次第に専制の度合いを強めていきました。8世紀初頭には、東は北西インドや中央アジア南部、西は北アフリカ西部のマグリブ地方を得、アンダルシアなどイベリア半島までの領土を得ました。征服地からの収入はすべて国庫に入り、新興貴族層の蓄財と奢侈(しゃし)、貧富の拡大は人々の不満を呼びます。国庫収入の柱は地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)で、地租は教義からすれば征服地のイスラム改宗者(マワーリー)は免除されるはずであるのに徴収され続けました。
マワーリーはこうした非アラブ(古代からイラン一帯に栄えたペルシャ人を含む)差別を全ムスリムの平等を説くクルアーンに反すると考えました。加えシーア派弾圧も彼らの不満を募らせたのです。
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