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中東の歴史の中で、近代イスラム教の最大の変化は政教分離と世俗化である

近代イスラム教最大の変化は何か。それは政治に宗教を持ち込まない、政治と宗教を切り離すことです。最初に実践したのはトルコです。わかりやすい例としてトルコでは、イスラム教が禁止している飲酒を法律では禁止していません。一方で政教一致のイランでは、法律でも飲酒を禁じています。

政教分離は当たり前の考え方に思えますが、イスラム教にとって存在の根幹を揺るがすことに等しいことです。なぜならイスラム教は単なる信仰ではなく、その信仰に基づいて、生活全般にわたるルールや、共同体が円滑に存続するためのルールを決めているからです。こういった社会事業のような側面がある背景には、厳しい環境のなかで生き抜く実践的な教えとして生まれた経緯があります。

地図で見る中東の歴史。イスラム世界はどのように変遷していったのか

イスラム初期の拡大期(7世紀)

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イスラム帝国黄金期(8世紀後半)

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オスマン帝国が世界をリード(16世紀)

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中東・イスラムの歴史は、預言者ムハンマドから始まった

6世紀後半、中東ではビザンツ帝とサーサーン朝ペルシャが攻防を繰り返していた時代、要衝メッカは中継貿易を独占して富み、繁栄のなかで貧富の格差が目立つようにもなっていました。

そのころ、メッカに生まれたムハンマドは40歳の頃、神アッラーからの啓示を受けます。最後にして最大の預言者となったムハンマドは、富を平等に分かち合い弱者を大切にする共同体を創る道を説きます。反発したメッカの指導者達から弾圧され、ムスリムたちはメディナへ逃れました(ヒジュラ(聖遷))。説教師であるにとどまらず、法律・政策を決定し、あらゆる社会生活の指針を裁定する、部族や性別によらない公正な共同体の指導者となったムハンマドは、弾圧に負けずメッカ無欠入城を果たし、カアバ神殿の偶像を破壊、この神殿を世界で最も神聖な場所だと宣言したのです。

中東の歴史の基礎となるイスラム世界を形成した、正統カリフ時代を知る

ムハンマドの死後、アラビアにできたゆるやかな国家らしきものはただちに崩壊しました。残された者たちは急いでムハンマドの後継者を決めます。最古参の信者でムハンマドの旧友であるアブーバクルが選ばれ、後継者=代理人を意味するカリフを名乗りました。以後ウマル、ウスマーン、アリーまでを正統カリフと呼びます。
正統カリフ時代にすでにイスラム世界の分裂は、芽吹いていました。ウマイヤ家の第3代カリフ・ウスマーンはクルアーンを統一、全土に道路・運河・モスクを数多く建設するなどの業績をあげる一方で、身内を重んじ、ウマイヤ家は富を得ていきました。不満を持った改革派によりウスマーンは撲殺され、彼らが推挙したのが、アリ―。そして、そのアリーが第4代カリフとなったのでした。

中東の歴史でイスラム黄金期だったウマイヤ朝・アッバース朝

アリーが死ぬと対立していたムアーウィヤが、ダマスカスを首都にウマイヤ朝を建てました。イスラムの教えに沿った統治でしたが、次期カリフを世襲制にすると民衆の不満は増大するなか、ウマイヤ朝のカリフらは次第に専制の度合いを強め帝国は拡大化していきました。

その後、反ウマイヤ勢力を利用してムハンマドの叔父アル・アッバースの子孫であるアブー・アルアッバースが挙兵、ウマイヤ朝を倒しアッバース朝(750〜1258)を建てます。人々の不満が前帝国を滅ぼしたことを教訓に非アラブ差別を廃して民族より宗教に力点をおいて統治、ウマイヤ朝までがアラブ帝国と呼ばれるのに対してアッバース朝以降はイスラム帝国と呼ばれます。

アッバース朝の時代で特筆すべきはイスラム教義と文化の発展です。法律、哲学や実学、芸術分野も盛んになって大家を輩出しています。まるで当時のヨーロッパが薄暗く見えるほどに、輝いた時代だったのです。

中東の歴史の中でおこったイスラム帝国の拡大と分裂、セルジューク朝

後世のアラブ人にとっては7~12世紀とは、イスラム帝国が「世界」を支配した偉大な時代でした。ウマイヤ朝そしてアッバース朝は、イスラム信仰を掲げて西では北アフリカやイベリア半島にまで領土を広げました。また東ではイラク、イランを支配下に置きます。さらに東進したイスラム教徒の軍隊は751年、タラス河畔の戦いで唐の軍隊を破りました。中央アジアのイスラム化を語る上での大事件です。イスラム帝国は途方もない空間を支配したのです。

トルコ系の人々が興したセルジューク朝トルコ

やがてアッバース朝の支配が弱まってくると、ペルシャ人をはじめとして、帝国の周辺で自らの王朝を樹立する動きが出てきます。ペルシャ人に続いてイスラム史の発展に大きな役割を担ったのは、トルコ系の人々。中央アジアなどを生活空間としていた人々です。イスラム商人やスーフィズム(イスラム神秘主義)の教団などを通じて、トルコ系の人々のイスラム教への改宗が進みます。イスラム化したトルコ系の人々は、やがて西方へ移動し始めます。そしてペルシャ人の王朝を倒して自分たちの王朝を樹立します。そうした王朝の一つがセルジューク朝でした。

中東の歴史上、最初の危機は東西から来襲した外敵、十字軍とモンゴル軍だった

最初の厄災は西から訪れました。1071年セルジューク朝トルコ(イスラム化したユーラシア内陸部のトルコ(テュルク)系言語を話す遊牧民の王朝。西進して領土を広げアッバース朝を圧迫。)がマラズギルトの戦いで大勝、ビザンツ皇帝を捕虜にするとビザンツからローマ教皇に救援要請がなされました。十字軍です。

7世紀からムスリムの領土となっていた聖地エルサレムを異教徒から奪還せよとローマ教皇が群衆に呼びかけると第1回十字軍がなり、イスラム勢力の分裂などに助けられ東地中海沿岸地帯を侵攻・占領、エルサレムを落としエルサレム王国(1099〜1291)を成しました。

その後13世紀になると、真の大厄災が東からやってきます。チンギス・ハン(位1206〜27)は、複数の氏族・部族をまとめあげ、東西貿易路に沿った諸地域を征服して財政基盤を確立すると西にも目を向けました。途上ニーシャープールでは犬猫の類まで殺し、ムスリム史家によると犠牲者は174万人余といいます。破壊・殺戮行為は息子らに受け継がれ、バグダードに築き上げられた壮麗なイスラム文化はすべて失われてしまいました。

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