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伊能忠敬の実測によって完成した近代日本地図

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

伊能忠敬の実測によって完成した近代日本地図

江戸時代に千葉県域が生んだ偉人といえば、もちろん伊能忠敬(いのうただたか)を忘れてはなりません。
江戸時代後期、忠敬はみずからの足で日本全国をくまなく歩き回り、実測に基づく日本地図を作成しました。
日本最初の近代地図は、忠敬の死後に完成することになりますが、いうなれば忠敬は「日本地図の父」。
忠敬がどのようにして偉業を成し遂げたのか、その足跡を追ってみましょう。

伊能忠敬の商人・名主としての手腕

1745(延享2)年、伊能忠敬は上総国山辺郡小関村(やまのべぐんこせきむら)(九十九里町小関)に生を受けました。長じて17歳になると、香取郡佐原村(香取市佐原)の豪商・伊能家の婿養子になります。伊能家は佐原で地主、酒造、米相場、運搬業、金融業など多角的な経営をしていましたが、伊能忠敬はそこで商才を発揮。伊能家を資産3万両(約45億円)の大豪商へと押し上げました。

1781(天明元)年、伊能忠敬は名主(なぬし)となると、その直後に天明の大飢饉が起こります。すると、窮民救済のために民政に力を注ぎ、また、利根川の築堤普請でも工費を安くまとめるなど手腕を発揮しました。この頃、伊能忠敬は名字帯刀が許され、村方後見にも任じられていました。

38歳のときに妻ミチを亡くした伊能忠敬は、後妻にも先立たれ、49歳にして隠居を決意。家督を長男に譲るのでした。

「下総の小江戸」佐原

佐原は利根川の支流・小野川の河口部に開かれた小さな村でしたが、江戸時代に幕府の天領(直轄地)となりました。利根川東遷事業やそれにともなう新田開発では物資集積場として注目され、さらに、九十九里浜から利根川へと河川が接続され物資の運搬ルートが確立すると、流通拠点として大きく発展。1768(明和5)年には戸数1322軒、人口5085人と「下総の小江戸」と称されるほどの繁栄を見せました。

こうした富裕な村で財を成した伊能家のような豪商が、豊かな経済力を背景に地域文化を育んだことも、伊能忠敬のような人材を出す素地となったと考えられます。

「下総の小江戸」佐原

千葉県香取市佐倉にある伊能忠敬旧居

伊能忠敬旧宅

住所
千葉県香取市佐原イ1900-1
交通
JR成田線佐原駅から徒歩10分
料金
無料
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