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空海、唐で密教の知識を深める

当時日本では密教経典がほとんどなく系統立てて教えてくれる師匠もいないため、空海は大日経について理解することができませんでした。そこで空海は 「大日経(密教)を教えてもらうために、唐に行きたい」と強く願うようになりました。修行の日々を送るなか、朝廷が募集した第16次遣唐使節団の補充要員として参加した空海は、大波で遭難しながらも念願叶って唐へ渡り、804年12月、長安へ入りました。

空海、密教師匠と唐で出会う

空海は805年5月下旬には梵語の習得を終えて、青龍寺東塔院(せいりゅうじとうとういん)に恵果阿闍梨(けいかあじゃり)を尋ねています。空海が師匠に選んだ恵果阿闍梨とは、どのような人物だったのでしょうか。恵果は青龍寺の和尚で当時61歳。20歳のときに不空三蔵(ふくうさんぞう)から密教を授かり、伝法(でんぼう)阿闍梨(真言密教を他人に伝授する資格を与えられた僧侶)となり、多くの弟子を育ててきました。密教には胎蔵界(たいぞうかい)(大日経(だいにちきょう))と金剛界(こんごうかい)(金剛頂経(こんごうちょうぎょう))の二つの世界(部)がありますが、恵果は両方の世界を正しく深く理解しており、密教の全てを伝えることができる一流の人物でした。

このころ恵果は体調を崩しており、後継者不在に悩んでいました。以前から評判を耳にしていた空海が自分に会いに来るのを心待ちにしていたのでしょう。出会ってすぐに空海の資質を見抜き自分の後継者として見定めたようで、ただちに灌頂(かんじょう)(阿闍梨の資格を得るための儀式)を受けるように勧めています。その後、空海はわずか3カ月で密教の全てを授かり、恵果阿闍梨の後継者となったのでした。

帰国した空海、真言宗(真言密教)を開く

恵果は空海に 「密教については全て教えた。早く日本に帰り、この教えを広めなさい」 と遺言し、805年12月15日に亡くなってしまいます。急ぎ、日本へ帰国した空海ですが、当初20年間の入唐の約束を反故にしまったため、朝廷から上京の許可が出ないまま筑紫(つくし)に滞在させられてしまいます。

しかし、たとえ入京が認められなくても、密教を広めることはできます。入京できないなら今いる場所で密教を広めればいいと考えたのか、筑紫国太宰府(だざいふ)の観世音寺(かんぜおんじ)を拠点に真言密教(しんごんみっきょう)を広めていきました。帰国直後の806年には、真言密教が東方に長く伝わるようにと祈願して東長寺(とうちょうじ)(福岡県福岡市)を建立。太宰府滞在期間は記録が少ないのですが、九州、山陽、四国などを巡礼して密教を広めていたという説があります。

空海は密教普及のため、足がかりとした寺で朝廷との絆を育んでいく

その後809年に、空海は上京を許され最澄ゆかりの高雄山寺に入ります。当時、南都六宗に代わる新しい仏教に期待を寄せていた桓武(かんむ)天皇は、最澄を高く評価していました。空海と同じ時期に遣唐使として唐で密教を学んだ最澄が、帰国した805年9月には、桓武天皇の命により高雄山寺で日本最初の密教灌頂(かんじょう)が実施されています。高雄山寺は「密教の拠点となる最澄ゆかりの寺院」として注目されていた場所でした。

空海は、高雄山寺や乙訓寺に滞在し密教を普及しながら、朝廷との絆を深めていきました。薬子(くすこ)の変で乱れた際、国家を平穏にするため、空海は鎮護国家の修法(しゅほう)を行い嵯峨(さが)天皇から信任を得ます。これ以降、嵯峨天皇は空海の後ろ盾となり、書を通じて交友を深めています。

空海、真言密教の修禅道場と根本道場を創る

空海は816年6月19日、嵯峨(さが)天皇に「高野山に修禅道場を建立したいので、下賜してほしい」という上表文を提出すると願い出は快諾され、上奏から1カ月も経たない7月7日に高野山下賜の勅命が出されました。

空海が願い出れば、嵯峨天皇や貴族たちは資金援助をしてくれたでしょう。しかし、空海が高額の資金援助を受けとったという記録はありません。代わりに残されているのが寄付を募る手紙です。空海は高野山を下賜されたあと、先遣隊として弟子の実慧(じちえ)と泰範(たいはん)を高野山に派遣します。自身は都に残り、資金繰りに奔走しました。

高野山下賜からわずか7年後、空海は嵯峨天皇より東寺を賜ります。建設中の国立寺院だった東寺を、空海は密教の根本道場に再編しました。空海は工事を引き継ぐ形で東寺に入り、境内の中央に密教の教えの中心となる講堂を建立します。密教の最高仏である大日如来(だいにちにょらい)を祀り、仏像を並べて曼荼羅の世界を視覚的に表現する「羯磨曼荼羅(かつままんだら)(いわゆる立体曼荼羅)」を配置しました。さらに五重塔を建立して寺観も整備し、東寺を「密教の根本道場」と位置付け、「国家鎮護の官立寺院」と「密教の教え」を両立させたのです。

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真言宗の開祖であり今も「お大師さま」として多くの人から信仰を集める空海。天才であるが故に数多くの挫折や苦悩を経験しながら、当時まだ新興勢力にすぎなかった密教をいかにしてこの世に広めたのか、そこには現代にも通じる社会を生き抜くための知恵が隠されています。本書は、謎の多い空海の生涯と思想をひも解きながら現代社会を生き抜くための行動の指針や考え方のヒントを紹介していくものです。

1.空海の行動から見る教え~空海の処世術~

・四国の地方豪族出身の真魚(空海)が貴族の子弟が通う大学に入学
・官吏を目指し勉学に励むも儒教に興味が持てず大学を退学、出家
・西日本の霊場で山岳修行に励み悟りを開いて「空海」になる
・苦悩の末、大日経と出会う
・朝廷が派遣する遣唐使使節団の一員として唐へ向かう
・30日以上の漂流の末、福州に漂着。約2400㎞の道のりを経て長安へ。
・密教習得に必要な梵語を学び、中国密教の中心的人物である恵果阿闍梨から密教の全てを伝授され後継者と認められる
・「日本で密教を広めよ」という恵果の遺言を果たすため日本へ早期帰国
・朝廷との約束を破って帰国したため上京の許可が下りず筑紫に滞在
・最澄の執り成しもあり809年に入京が叶う

2.空海の考え方から見る教え ~空海の交渉術~

・南都六宗と距離を置きたい桓武天皇と最澄の活動により、密教布教の基盤が固まる
・「書」という共通点を持つ橘逸勢との交流が嵯峨天皇と結びつく
・薬子の変で乱れた国家を平穏にするため鎮護国家の修法を行ない嵯峨天皇から信任を得る
・早良親王の怨霊を鎮めるために乙訓寺の別当となり高雄山寺で最澄に持明灌頂を授ける
・自分の都合で密教の教えを求める最澄を許せず経典の貸与を拒否。2人の関係が途絶える
・都から離れた紀伊山地に位置する高野山を真言密教の修禅道場として開創する
・唐で学んだ最先端の技術を駆使して故郷に貢献。築池別当として満濃池の修築工事を完遂する
・嵯峨天皇より東寺を賜り国立寺院だった東寺を密教の根本道場に再編する
・さまざまな学問を学べる庶民のための学校、綜藝種智院を設立する
・密教の基盤強化のために病を押して活動し弟子たちに具体的な指示を残して入定する

3.空海が完成させた密教とは ~密教の教え~

・鎮護国家思想の学問から現世利益の仏教へ。これまでの仏教と空海が持ち帰った密教の違い
・密教の最終目標はその身のまま仏になること。正しく三蜜加持を行なえば即身成仏できる
・両手を合わせて印を結び仏と一体化して真実の言葉である真言を唱え仏の加護を得る
・密教を経典や注釈書だけで理解するのは困難なため大宇宙の本質を仏の配置で表現した曼荼羅で把握する
・仏の区分は如来・菩薩・明王・天の4種類。それぞれの仏の違いと特徴を知る
・護摩行は密教の修法の一つ。大日如来の智慧の火で煩悩を焼き払う

4.弘法大師の教えを感じる場所 ~弘法大師信仰~

・最澄に遅れること55年、空海がとうとう弘法大師になる
・人智の及ばない出来事から人々を守る密教の教えと弘法大師・空海への感謝が、弘法大師信仰として定着
・修行のための巡礼路だった「四国辺路」が一般庶民の間に広がり「四国遍路」として定着する
・空海の足跡をたどりながら自分を見つめ直す。全長約1400㎞の四国八十八ケ所巡り
・四国遍路をしたいが四国まで行けない人のために全国各地で四国霊場を模した「地四国」が開かれる
・水にまつわる伝説が多い?全国各地に点在する弘法水伝説と開湯伝説
・「うどん県・香川」の産みの親は空海だった?空海が唐から持ち帰ったと伝わる食べ物

【監修者】吉田 正裕(よしだ しょうゆう)

広島県廿日市市出身、真言宗御室派大本山大聖院第77代座主。2008~2018年総本山仁和寺本山布教師。2018~2022年総本山仁和寺執行長、真言宗御室派宗務総長。宗教事業にかかわらず、宮島、広島の地域活動、文化活動などを幅広く行なっている。

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