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空海は43歳の時、高野山開創のために動き出した!

空海は816年6月19日、嵯峨(さが)天皇に「高野山に修禅道場を建立したいので、下賜してほしい」という上表文を提出し、快諾されました。

おそらく空海は20代のころから修禅道場の建立構想を持っており、場所探しなど計画を練っていたのでしょう。嵯峨天皇がこの計画を知っていたかどうかは不明ですが、願い出は快諾され、上奏から1カ月も経たない7月7日に高野山下賜の勅命が出されています。

空海は高野山開創のために奔走、寄付を募る

高野山は和歌山県北東部に位置する山地で、標高は約900m。山頂付近には八つの峰に囲まれた平坦な土地(盆地)が広がっており、この盆地全体を高野山と呼びます。空海が境内と定めた面積はおよそ3000haと推測されており、これほどの広さの山林を切り開いて寺院を建立するには莫大な人手と金銭が必要でした。

空海が願い出れば、嵯峨天皇や貴族たちは資金援助をしてくれたでしょう。しかし、空海が高額の資金援助を受けとったという記録はありません。代わりに残されているのが寄付を募る手紙です。空海は高野山を下賜されたあと、先遣隊として弟子の実慧(じちえ)と泰範(たいはん)を高野山に派遣。自身は都に残り、資金繰りに奔走しました。

先に高野山に入っていた実慧と泰範から「一軒の草庵(そうあん)が完成した」という連絡を受けた空海は、818年11月に高野山に入ります。それ以降は都と高野山を行き来しながら高野山の全体構造を決め、全山開創の指揮を執りました。

空海は48歳の時、日本最大級のため池を修築した!

空海は唐に滞在中、密教以外にもさまざまな技術を習得しています。その象徴ともいえるのが、日本最大級の農業用ため池・満濃池(香川県まんのう町)の修築です。

818年、大洪水により満濃池の堤防が決壊しました。朝廷は堤防の修復を担当する築池使として、路真人浜継(みちのまびとはまつぐ)を派遣しましたが、修復規模が広いうえに人手が足らず、1年経っても完成の目め処どが立ちませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが、讃岐国(さぬきのくに)の地方豪族出身者・空海です。この当時、空海は天皇のそばに仕える内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)になっており、民衆からも「密教の力で衆生を救ってくれるお坊様」として信仰されていました。

現地入りした空海を、地元は熱烈に歓迎しました。彼を慕って集まった人々によって、人手不足は解消されました。空海は土木の専門家ではないのですが、最先端の技術を次々と採用していきます。「水圧を考慮したアーチ型堤防」「洪水時にあふれた水を流す水路(余水吐(よすいば)き)」など、唐で学んだと思われる土木技術が地元復興のために活用されたのです。

空海は50歳の時、嵯峨天皇から東寺を賜った!

もともと官寺だった東寺が真言宗の寺になった経緯には、空海と嵯峨天皇が関係しています。嵯峨天皇は823年1月、空海に東寺を下賜しました。実はこの時、東寺はまだ建設中。本堂である金堂は完成していましたが、それ以外の工事は進んでいませんでした。

空海は工事を引き継ぐ形で東寺に入り、境内の中央に密教の教えの中心となる講堂を建立します。密教の最高仏である大日如来(だいにちにょらい)を祀り、仏像を並べて曼荼羅の世界を視覚的に表現する「羯磨曼荼羅(かつままんだら)(いわゆる立体曼荼羅)」を配置しました。さらに五重塔を建立して寺観も整備します。東寺を「密教の根本道場」と位置付け、「国家鎮護の官立寺院」と「密教の教え」を両立させたのです。

さらに空海は、寺と僧侶のあり方も改革しました。平安時代初期の寺院はさまざまな宗派を学ぶ「諸宗兼学」が一般的だったので、一つの寺院に複数の宗派を信仰する僧侶が在籍していました。空海は「東寺の僧侶は真言宗僧に限定してほしい」と要請します。この考え方が、現在の「一つの寺に、一つの宗派」という寺院のあり方につながっていきます。

空海は55歳の時、庶民も無料で学べる学校を開校した!

空海は教育界にも進出しています。「一つの味だけではおいしい料理にならないし、一つの音だけでは美しい旋律にならない。さまざまな学問を修めなければ、目標達成は叶わない。しかし寺院では仏教しか教えないし、大学寮の授業は儒教が中心だ。儒教・道教・仏教を知り、専門家同士が意見を交え、社会づくりに役立つ学問を学ぶべきだ」と力説しています。

また空海は、身分に関係なく誰もが自由に学べる教育機関の必要性も説いています。自身が身分の低い地方豪族出身だったからこそ、庶民にも学べる環境が必要だと感じたのでしょう。

庶民でも入学可能、給食も支給する画期的な教育機関

学校用地は、藤原三守(ふじわらのただもり)が寄付した左京九条の屋敷を活用しました。空海はこの場所を「敷地が広く豊かな自然がある。東寺からも近く、交通の便が良い」と絶賛。828年12月15日に綜藝種智院式并序(しゅげいしゅちいんのしきじょをあわせたり)を朝廷に提出し、綜藝種智院を開校しました。儒教・道教・仏教に加え、科学技術や天文学、医学や薬学、語学や芸術などを学ぶことができる総合学院で、庶民でも入学可能な画期的な教育機関でした。

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空海は62歳の時、高野山で入定した!

831年5月、空海は病にかかりました。大僧都(だいそうづ)(僧侶に与えられる位階)を辞職させてほしいと願い出ていることから、よほど体調が悪かったのでしょう。この頃から空海は「自分亡き後」について考えるようになったようです。832年の秋、空海は長らく拠点としてきた東寺を去り、高野山に入りました。活動の集大成として、「残された弟子たちのための終活」を始めたのです。

最晩年まで、真言密教のさらなる基盤強化のために尽力した後は、弟子たちに今後を託しました。空海は弟子たちに「自分は835年3月21日寅の刻(午前3~5時)に入定(精神を統一し、深く瞑想すること)し、弥勒菩薩(みろくぼさつ)のもとで人々を見守る」と予告しました。そして、25カ条の遺言「御遺告(ごゆいごう)」を示し、寺院の管理・運営、修行に対する心得や戒めなどを指示し、後継者の指名を行っています。

弟子たちに後事を託した空海は、自身で予告した通り、835年3月21日午前4時に入定しました。高野山では現在も空海が衆生救済のために祈り続けていると信じられています。

『スッと頭に入る空海の教え』好評発売中!

真言宗の開祖であり今も「お大師さま」として多くの人から信仰を集める空海。天才であるが故に数多くの挫折や苦悩を経験しながら、当時まだ新興勢力にすぎなかった密教をいかにしてこの世に広めたのか、そこには現代にも通じる社会を生き抜くための知恵が隠されています。本書は、謎の多い空海の生涯と思想をひも解きながら現代社会を生き抜くための行動の指針や考え方のヒントを紹介していくものです。

1.空海の行動から見る教え~空海の処世術~

・四国の地方豪族出身の真魚(空海)が貴族の子弟が通う大学に入学
・官吏を目指し勉学に励むも儒教に興味が持てず大学を退学、出家
・西日本の霊場で山岳修行に励み悟りを開いて「空海」になる
・苦悩の末、大日経と出会う
・朝廷が派遣する遣唐使使節団の一員として唐へ向かう
・30日以上の漂流の末、福州に漂着。約2400㎞の道のりを経て長安へ。
・密教習得に必要な梵語を学び、中国密教の中心的人物である恵果阿闍梨から密教の全てを伝授され後継者と認められる
・「日本で密教を広めよ」という恵果の遺言を果たすため日本へ早期帰国
・朝廷との約束を破って帰国したため上京の許可が下りず筑紫に滞在
・最澄の執り成しもあり809年に入京が叶う

2.空海の考え方から見る教え ~空海の交渉術~

・南都六宗と距離を置きたい桓武天皇と最澄の活動により、密教布教の基盤が固まる
・「書」という共通点を持つ橘逸勢との交流が嵯峨天皇と結びつく
・薬子の変で乱れた国家を平穏にするため鎮護国家の修法を行ない嵯峨天皇から信任を得る
・早良親王の怨霊を鎮めるために乙訓寺の別当となり高雄山寺で最澄に持明灌頂を授ける
・自分の都合で密教の教えを求める最澄を許せず経典の貸与を拒否。2人の関係が途絶える
・都から離れた紀伊山地に位置する高野山を真言密教の修禅道場として開創する
・唐で学んだ最先端の技術を駆使して故郷に貢献。築池別当として満濃池の修築工事を完遂する
・嵯峨天皇より東寺を賜り国立寺院だった東寺を密教の根本道場に再編する
・さまざまな学問を学べる庶民のための学校、綜藝種智院を設立する
・密教の基盤強化のために病を押して活動し弟子たちに具体的な指示を残して入定する

3.空海が完成させた密教とは ~密教の教え~

・鎮護国家思想の学問から現世利益の仏教へ。これまでの仏教と空海が持ち帰った密教の違い
・密教の最終目標はその身のまま仏になること。正しく三蜜加持を行なえば即身成仏できる
・両手を合わせて印を結び仏と一体化して真実の言葉である真言を唱え仏の加護を得る
・密教を経典や注釈書だけで理解するのは困難なため大宇宙の本質を仏の配置で表現した曼荼羅で把握する
・仏の区分は如来・菩薩・明王・天の4種類。それぞれの仏の違いと特徴を知る
・護摩行は密教の修法の一つ。大日如来の智慧の火で煩悩を焼き払う

4.弘法大師の教えを感じる場所 ~弘法大師信仰~

・最澄に遅れること55年、空海がとうとう弘法大師になる
・人智の及ばない出来事から人々を守る密教の教えと弘法大師・空海への感謝が、弘法大師信仰として定着
・修行のための巡礼路だった「四国辺路」が一般庶民の間に広がり「四国遍路」として定着する
・空海の足跡をたどりながら自分を見つめ直す。全長約1400㎞の四国八十八ケ所巡り
・四国遍路をしたいが四国まで行けない人のために全国各地で四国霊場を模した「地四国」が開かれる
・水にまつわる伝説が多い?全国各地に点在する弘法水伝説と開湯伝説
・「うどん県・香川」の産みの親は空海だった?空海が唐から持ち帰ったと伝わる食べ物

【監修者】吉田 正裕(よしだ しょうゆう)

広島県廿日市市出身、真言宗御室派大本山大聖院第77代座主。2008~2018年総本山仁和寺本山布教師。2018~2022年総本山仁和寺執行長、真言宗御室派宗務総長。宗教事業にかかわらず、宮島、広島の地域活動、文化活動などを幅広く行なっている。

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