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空海は18歳で大学寮へ入ったが、20歳で退学した!

讃岐国(さぬきのくに)から上京してきた真魚(空海)は大足の元に身を寄せ、大足は真魚(空海)に、論語・孝経・史伝・文章などを指導しました。今ふうに言うと専属の家庭教師。大足に3年間学んだ真魚は791年に大学寮(だいがくりょう)に入学を果たします。

奈良時代末期にも公的な教育機関が設けられていました。一つは地方に置かれた国学、もう一つが中央の都に置かれた大学寮です。大学寮に入学できるのは「13歳以上16歳以下の貴族の子弟」。地方豪族出身でその時18歳の真魚(空海)は、本来大学寮に入学することはできません。入学条件をどのようにクリアしたのかは、史料が残っておらず謎のままです。

空海は18歳で入学するも、儒教中心の授業に興味を失う

身分の高い年下の同級生と机を並べるというのは、肩身の狭い部分があったかもしれません。とはいえ真魚(空海)は一族の期待を一身に背負い、「官僚として立身出世するため」に入学しています。身分や年齢といったコンプレックスを払拭するかのように真魚(空海)は学問に励みました。

当時の大学寮は律令制度や儒学を重視していたこともあり、儒教関連の講座が多かったのですが、真魚(空海)は儒教を学ぶことに意味を見出せませんでした。『空海僧都伝(くうかいそうづでん)』(空海の伝記)では儒教のことを「我の習う所は古人の糟粕(そうはく)なり。目前、なお益なし(大学寮で教わる学問は、古人の言葉の絞りかすのようなもので、何の役にも立たない)」と酷評。学べば学ぶほど、興味を失っていったようです。

空海は両親の反対を押し切って、退学

儒教に興味が持てない真魚(空海)は、徐々に授業への興味を失っていきます。そんな空海をひきつけたのが、仏教の教えでした。仏教は政界に広く浸透しており、大学寮では儒教と仏教の兼学を推奨。仏教の重要性を解く学者も少なくなかったため、大学寮でも積極的に仏教の授業が行われていました。経史(けいし)(儒教の経典と歴史)を学んだことにより仏教に強い興味を持った真魚(空海)は、大学寮を辞めて出家したいという気持ちを徐々に強めていきました。

息子の出世に期待を寄せていた両親は、もちろん大反対。友人や親類も「出家すれば、佐伯家の名前を辱はずかしめることになる。親不孝なことだから、考えなおせ」と引き留めましたが、真魚(空海)は大学寮を退学します。20歳前後で優婆塞(うばそく)(出家していない、在家の仏教信者)として山林修行に入り、24歳のときには出家を反対する親族に対する出家宣言書として『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を書き上げています。

山岳修行を積んだ空海は、22歳で悟りを開いた!

大学寮退学後以降の空海の足取りは不明で、この時期、真魚(空海)が何をしていたかは分かっていません。大学寮を退学してから遣唐使船に乗り込む31歳までは、ほぼ空白期間なのです。

正確なところは不明ですが、平城京にほど近い大安寺(だいあんじ)などで仏教を学んだといわれ、高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)には「20歳の時、和泉国槇尾山寺(いずみのくにまきのおさんじ)で得度(とくど)。当初は教海(きょうかい)と名乗っていたが、後に如空(にょくう)に改めた」と伝わっています。

この当時出家するためには国が定めた寺で授戒(じゅかい)(出家のための儀式)を受ける必要がありましたが、槇尾山寺は国が定めた寺ではありません。このため真魚は得度したとはいえ、私度僧(しどそう)(官の許可なく僧となった者)という扱いでした。阿刀大足(あとのおおたり)の人脈を頼れば授戒を受けて正式な僧侶になることもできただろうが、真魚はその道を選ばなかったようです。

室戸岬の絶景に心を打たれ、空海と名乗る

真魚が「空海」と名乗るようになったのは22歳の時とされています。経緯は不明ですが高知県の室戸岬(むろとみさき)には「洞窟で修行をしている時、口に明星(金星)が飛び込んできた。この時自分の意識が宇宙に溶けていくのを感じ、悟りを開いた。洞窟から出ると、空と海だけが広がっていた。この光景から自らの名前を空海と改め、仏教の道を進むことを決意した」という伝説が残っています。

この時の経験から出家の思いをさらに強くした空海は、24歳で先述の『聾瞽指帰』を上梓したのです。20歳から本格的に仏教を学び始め、22歳で悟りを開き、24歳で自分が生涯をかけて極める道を見出すというスピード感には、迷いが全く感じられません。

空海は31歳で、遣唐使となり唐へ渡った!

この時期空海は「こんなに探しているのに、道が見えない」という絶望を抱えながら、各寺を巡って仏典を集め、研究していたようです。さまざまな仏典を読んでも満足ができないという苦悩の中、「久米寺(くめでら)の東塔に、お前が求めている経典がある」という夢のお告げを受け、大日経を発見します。この経典の内容に感銘を受けた空海は、この時の喜びを「精誠感(せいせいかん)あって、この秘門(ひもん)を得たり(自分の真心が通じ、密教に会うことができた)」と『性霊集』で述べています。

この密教の経典は、非常に難解であることから当時の僧侶は手をつけていませんでした。空海ですら「文(もん)に臨んで心昏うして(経典を読んでみたが、難しくて内容が理解できない)」と記しています。そもそも密教経典がほとんどなく系統立てて教えてくれる師匠もいない日本では、大日経について理解することができません。そこで空海は「大日経(密教)を教えてもらうために、唐に行きたい」と強く願うようになりました。

空海は第16次遣唐使節団の二次募集で参加する

朝廷は801年、第16次遣唐使節団の派遣を正式に決定。803年4月16日、4隻の遣唐使船が難波(なにわ)(現在の大阪湾)を出港しました。最澄(さいちょう)らが使節団の一員として唐へ向かいました。しかし、途中、暴風雨に見舞われ遣唐使船が沈没。最澄や橘逸勢、霊仙が乗った船はなんとか筑紫に到着しましたが、船は損傷して航行不能となり死傷者も出てしまい、一時中断となります。船舶の修理や人員・物資の補充が行われることになったのです。そこで改めて留学生と留学僧の2次募集が行われることとなったのですが、これに応募したのが空海でした。

東シナ海で遭難し、赤岸鎮に漂着した空海

ギリギリのタイミングで留学僧の座を射止めた空海は、具足戒(ぐそくかい)を受けてからわずか1カ月後の804年5月12日、第16次遣唐使節団の補充人員として難波(なにわ)を出発。瀬戸内海経由でまずは太宰府(だざいふ)に向かい、本体と合流しました。

国内最後の寄港地となる肥前国松浦郡田ノ浦(ひぜんのくにまつらぐんたのうら)(現在の長崎県平戸市(ひらどし)とも、五島列島ともいわれる)を発ってわずか1日後の7月7日午後8時ごろ、船団は暴風に襲われます。空海の乗った遣唐使船の第1船は難破船さながらの状態で30日以上東シナ海を漂い、8月10日福州長渓県(ふくしゅうちょうけいけん)赤岸鎮(せきがんちん)(現在の福建省福州市(ふっけんしょうふくしゅうし)から北へ約250kmに位置する港)に漂着。急死に一生を得たのです。

唐へ渡った空海は、3カ月で密教をマスターした!

長安についた空海は、西明寺(さいみょうじ)を寄宿先としました。空海は、密教の習得に必要な梵語(ぼんご)を学びながら各寺院の僧侶と交流を深めて人脈をつくっていきました。

空海は805年5月下旬には梵語の習得を終え、青龍寺東塔院(せいりゅうじとうとういん)に恵果阿闍梨を尋ねています。このころ恵果は体調を崩しており、後継者不在に悩んでいました。以前から評判を耳にしていた空海が自分に会いに来るのを心待ちにしていたのでしょう。出会ってすぐに空海の資質を見抜き自分の後継者として見定めたようで、ただちに灌頂(かんじょう)(阿闍梨の資格を得るための儀式)を受けるように勧めています。

空海は、わずか3カ月で密教を完全に理解した

空海は恵果から最先端かつ最高の密教を授けられ、わずか数カ月の間に胎蔵界と金剛界の二つの世界を完全に理解したようです。梵語の事前学習が大いに役立ったようで、恵果も 「漢語も梵語も同じように使いこなしている」 と感心しています。学習と同時進行で儀式も受けており、6月上旬·7月上旬·8月上旬の3回にわたって灌頂を受法。8月上旬の灌頂で伝法阿闍梨となり遍照金剛(へんじょうこんごう)の法号を授けられた空海は、真言密教の両部(胎蔵界と金剛界)の教えを伝授する資格を得ました。

空海は33歳で帰国したが、太宰府に止住させられた!

恵果阿闍梨は空海を後継者と認め、自分の全てを空海に引き継がせました。恵果は空海に「密教については全て教えた。早く日本に帰り、この教えを広めなさい」 と遺言し、805年12月15日に亡くなってしまいました。

当初の予定では空海の留学期間は20年でしたが、遺言を受け空海は帰国を急ぎました。806年8月ごろに明州の港から出港し、日本を目指しています。空海の記録によると復路でも暴風雨に遭遇し、沈没する遣唐使船もある中、往路復路ともに暴風雨に遭遇したにもかかわらず目的地に到着しているのだから、空海は本当に運が良い。復路の遣唐使船は同年10月に筑紫に到着し、空海は鴻臚館(こうろかん)(現在の福岡市中央区付近)に入りました。

空海は上京の許可が出ないまま、筑紫に滞在させられた

通常であれば太宰府(だざいふ)にしばらく滞在した後に上京するのですが、ここで空海の存在が問題となりました。空海としては「日本で密教を広めたい」という熱意を持って帰国しているのですが、朝廷はそんな事情を知りません。いくら唐側が帰国を認めたからといって、留学期間20年の約束で入唐した留学僧がわずか2年で帰国するなど約束違反です。

空海の帰国を上奏した高階遠成から「空海も一緒に帰国したが、上京させても良いか?」とお伺いを立てられ、朝廷は「なぜ帰ってきたのか」と驚いたでしょう。結局空海の入京許可は出ず、高階遠成は空海を残したまま太宰府を発っています。

空海は、まずは自分のいる場所で活動した

たとえ入京が認められなくても、密教を広めることはできます。空海は高階遠成に御請来目録(ごしょうらいもくろく)(空海が唐から持ち帰った経典や梵字(ぼんじ)真言集、曼荼羅(まんだら)や仏具などの目録)を託しました。日本国内には存在しない貴重な文物ばかりであり、「この目録を見れば、密教の素晴らしさを理解してもらえるだろう」と考えたのかもしれません。この目録は高階遠成によって朝廷に献上されており、おそらく唐から短期で帰国していた最澄(さいちょう)も早い時期に目を通したと思われます。

入京できないなら今いる場所で密教を広めればいいと考えたのか、空海はこの時期、筑紫国を拠点に布教活動を行っています。

空海は36歳で、やっと入京を許された!

空海が上京を許されたのは809年のこと。まずは和泉国槇尾山寺(いずみのくにまきのおさんじ)(現在の槇尾山(まきのおさん)施福(せふくじ)寺)に滞在し、7月になってから入京して高雄山寺(たかおさんじ)(現在の神護寺(じんごじ))に入っています。在位中、空海の上京を認めなかった平城天皇の譲位により嵯峨(さが)天皇が即位したのが809年4月1日なので、「嵯峨天皇即位のタイミングで上京許可が出た」と考えることもできるでしょう。

また空海の入京が実現したのは、最澄の影響力も大きいといわれています。唐から短期で帰ってきた最澄は、空海が上奏した御請来目録(ごしょうらいもくろく)を見て「自分の学んだ密教には足りない部分がある」と感じたのでしょう。空海から密教を学ぶため、空海が上京できるように取りなしたともいわれています。

空海が40歳の時、最澄と決別した!

入京を許された空海が入った高雄山寺は、「密教の拠点となる最澄ゆかりの寺院」として注目されていました。空海が高雄山寺に入山した時期は定かではありませんが、最澄が809年8月24日付で経典借用状(空海が唐から持ち帰った密教経典12部の借覧を依頼する手紙)を出していることから、遅くとも同年8月中旬には入山したと思われます。

空海は恵果阿闍梨(けいかあじゃり)の後継者で密教の全てを会得していますが、日本の仏教界ではまだ無名の存在でした。天皇のそば近くに仕える最澄とは身分の差もありました。しかし最澄は空海が献上した御請来目録(ごしょうらいもくろく)から彼の才能や学びの深さを理解しています。自分より7歳年下の何の肩書きもない空海に対して、礼儀を尽くした丁寧な手紙を送っています。空海が最澄の求めに応じる形で、両者の交流はスタートしました。

空海、高雄山寺で最澄に持明灌頂を授ける

812年10月27日、乙訓寺に滞在していた空海のもとに最澄が訪ねてきました。最澄と空海は経典の貸し借りを通じて交流がありましたが、対面したのはこのときが初めて。最澄は空海に「密教の灌頂を受けたい」と願い出ました。最澄は空海より7歳年上であり平安仏教の最高僧に位置付けられるほど高い地位にありました。しかし手紙には「受法弟子最澄(あなたの弟子、最澄より)」と記名しており、自分の至らない部分を理解していたようです。空海は最澄の熱意を感じ取ったのか、密教の全てを授けると約束します。高雄山寺にて11月15日に金剛界(こんごうかい)の持明灌頂を、12月14日に胎蔵界(たいぞうかい)の持明灌頂を授けています(高雄灌頂)。

持明灌頂は密教初心者に行う簡易的な儀式です。最澄は空海に「伝法灌頂(阿闍梨(あじゃり)の位を得るための灌頂))はいつごろ受けられるか?」と問いました。これに対して空海は「3年後」と回答。修行をしていないものに伝法灌頂を授けるつもりはなかったのです。最澄はこの「3年」という言葉に、落胆したようです。比叡山(ひえいざん)を預かり天台宗の開祖としての仕事がある最澄には、3年間も密教修行に専念する余裕はありません。そこで最澄は空海のもとに2人の弟子を送り、自分の代わりに密教を学ばせることにしました。

空海と最澄、2人の関係が途絶える

最澄から空海に宛てた書簡は25通現存していますが、約半数が経典借用依頼か返還に関するもの。比叡山(ひえいざん)の一切経蔵(いっさいきょうぞう)(仏典を収める書庫)を整備するという目標も掲げていた最澄は、密教の教えに加え、「密教経典そのもの」も求めていたのです。

813年11月23日、最澄は空海に「釈理趣経(しゃくりしゅうきょう)(理趣経の注釈書)を来月中旬まで貸していただけないだろうか」と願い出ました。従来通り丁寧な文面の依頼に対し、空海は長文の返書をもってきっぱりと拒否しました。空海にとって最澄側の事情は「己の利益や立場のために密教を利用している」としか映らなかったようです。

この手紙を最澄がどう受け止めたかは伝わっていませんが、「これ以上分かり合うことはできない」と感じたのでしょう。以降の手紙は経典の返還に関するものだけになり、817年以降は手紙のやり取りも途絶えています。

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