目次
空海の生涯~20代の空海
生涯のなかで、誰しも迷い悩む20代。空海は周囲の反対を押し切って出家し、近畿や四国の山々で山岳修行に明け暮れる20代を過ごしました。
空海、山岳修行に励む
息子の出世に期待を寄せていた両親は、真魚(空海)が出家することを強く反対しました。しかし真魚(空海)は周囲の反対を押し切り、20歳で大学寮を退学。出家していない在家の仏教信者として山岳修行に入り、近畿地方の吉野山(よしのやま)や高野山(こうやさん)、郷里である四国の大瀧嶽(だいりゅうがたけ)(徳島県)、室戸岬(むろとみさき)(高知県)、石鎚山(いしづちさん)(愛媛県)などで山岳修行を重ねました。
ある日、空海は室戸岬の御厨人窟(みくろど)で「口に明星(金星)が飛び込んでくる」という経験をし、自ら悟りを開きます。悟りを開いて洞窟を出た際に見た「空と海だけが広がる光景」にちなんで、22歳ごろから「空海」と名乗るようになったと伝わっています。
空海、大日経に出合う
そして空海はある時、大日経(だいにちきょう)(密教の経典)に出合います。空海は「大日経(密教)こそが、最高の教えだ」と確信しましたが、非常に難解で理解できません。当時の日本には、密教や大日経について系統立てて教えてくれる人物はいませんでした。空海は「大日経について学びたい。大日経を教えてくれる人に会うため、唐に行きたい」と考えるようになりました。
空海の生涯~30代の空海
空海の生涯、30代はどのような経験をしたのでしょうか。空海は留学僧として唐に渡り、恵果阿闍梨から密教の全てを習得して帰国します。
空海、留学僧として唐に渡る
唐で学ぶためには、遣唐使節団の留学僧(るがくそう)に選ばれる必要がありました。空海は東大寺(とうだいじ)戒壇院(かいだんいん)で儀式を受けて正式な僧となり、31歳で第16次遣唐使節団に参加します。
瀬戸内海、太宰府(だざいふ)、田ノ浦(たのうら)、東シナ海を経由して唐を目指しました。当時の渡海は命懸けであり、途中で沈没する遣唐使船も少なくありませんでした。空海の乗った船も東シナ海で暴風雨に遭い、遭難してしまいます。空海も海上を34日間漂流しますが、なんとか福州長渓県赤岸鎮(ふくしゅうちょうけいけんせきがんちん)へ漂着。空海は海路と陸路で長安を目指し、804年12月の末に長安(ちょうあん)に到着しました。
遣唐使となった空海、2年で帰国する
長安の西明寺(さいみょうじ)を寄宿先とした空海は、まず梵語(ぼんご)を習得しました。その後青龍寺(せいりゅうじ)を訪ね、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から密教を学びました。わずか3カ月で密教の全てを習得した空海は、恵果阿闍梨の「密教を日本に広めなさい」という教えに従って806年10月に帰国します。
持ち帰った経典や仏教資料などの目録を「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」としてまとめ、朝廷に献上しました。空海は、「20年間唐で学ぶ」という約束を破って帰国したため太宰府にとどめ置かれましたが、先に帰国していた最澄(さいちょう)の取りなしもあり、3年後に上京が許されています。
空海の生涯~壮年期の空海
空海が生涯でいちばん輝き活躍したのは、壮年期です。空海は密教の布教と基盤強化に奔走し、根本道場の東寺や修行道場の高野山を整備しました。
空海、国内に密教を広める
上京を許された空海は高雄山寺(たかおさんじ)(現在の神護寺(じんごじ))に入り、密教の布教活動を行いました。遣唐使節団の一員として共に渡海した橘逸勢(たちばなのはやなり)と交流するなかで、朝廷や貴族の信頼を得ていきます。また薬子(くすこ)の変後に鎮護国家の密教修法を行ったことで、嵯峨(さが)天皇も空海に帰依。朝廷内に密教布教の基盤を構築しました。
最澄(さいちょう)との交流が始まったのも、帰国後上京してからです。当初はともに密教を広めようと親しく交流していましたが、宗教観や価値観の相違により決別します。空海は真言宗の開祖、最澄は天台宗の開祖として違う道を歩むことになるのです。
高野山金剛峯寺の建立と東寺の整備
空海の偉業として知られているのが、高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)の建立と東寺(とうじ)の整備ではないでしょうか。816年6月、都から離れた静かな山中に密教の修行道場を作りたいという思いから、空海は嵯峨天皇に高野山の下賜(かし)を願い出ます。
また823年にはまだ建立中だった官立寺院の東寺を賜り、密教の根本道場として整備しました。高野山と東寺は「弘法大師三大霊場」に数えられており、現在も多くの人から信仰されています。
空海の生涯~晩年の空海
生涯に幕を下ろすことになる晩年期になっても、空海の活躍はとどまりません。満濃池の修築や綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)の開校など、多彩な分野で社会に貢献します。
空海、教育・建築分野でも活躍する
高野山整備のため都と高野山を行き来していた空海のもとに、満濃池(まんのういけ)改修工事の指揮を執れという命が下ります。満濃池は空海の故郷である讃岐国(さぬきのくに)にある農業用のため池ですが、堤防が決壊して地元の人々が困っていました。
築池別当(つきいけべっとう)に任命された空海は早速現地に赴き、唐で学んだ土木技術を駆使します。現代の建築現場でも採用されている最先端技術で、地元の復興に寄与しました。空海を慕って集まった人々の尽力もあり、工事はわずか2カ月で完了。空海は満濃池鎮護の寺として、池の北西岸に神野寺(かんのじ)を建立しています。
日本初の庶民も学べる教育機関を設立する
「仏教だけ」「儒教だけ」ではなく、社会づくりに役立つさまざまな学問を学ぶべきだと考えていた空海は、828年に綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)を開校します。儒教・道教・仏教に加え、科学や天文学、医学や語学を学ぶことができる総合学院で、志があれば庶民でも入学可能でした。学費は無料で、食事も提供されたといわれています。残念ながら空海の死後に廃校となってしまいましたが、日本初の「庶民も学べる教育機関」として歴史に名を残しました。
空海の生涯~現在の空海
空海の生涯は幕を閉じましたが、今も高野山奥之院で永遠の瞑想に入り、世界の平和や人々の幸福を祈り続けています。
空海は、衆生のために祈り続ける
最晩年の空海は長らく拠点としてきた東寺(とうじ)を去り、高野山(こうやさん)に入ります。弟子たちに寺院の運営管理や修行に対する心得や戒めを説いた「御遺告(ごゆいごう)」を示し、835年3月21日、62歳で入定(にゅうじょう)しました。空海は現在も高野山奥之院(おくのいん)で深い瞑想に入っており、衆生を救うための祈りを捧げています。
入定から86年後の921年10月27日、醍醐(だいご)天皇は空海に「弘法大師(こうぼうだいし)」の諡号(しごう)を授与しました。これにより空海は、弘法大師と呼ばれるようになったのです。平安時代中期には貴族の間に弘法大師信仰が広がり、徐々に民衆にも浸透していきました。
弘法大師信仰と四国遍路
弘法大師信仰とともに広がったのが四国遍路です。四国遍路とは、四国4県に点在する88の寺(四国八十八ケ所霊場)を巡礼することを指します。巡礼者は「同行二人(どうぎょうににん)(常にお大師さまと一緒)」という言葉のもと、全行程約1200kmの道のりを歩き、先祖供養や現世利益、心願成就などを願います。時代の変化により巡り方や目的は多様化しましたが、現在も多くの人が四国八十八ケ所霊場に訪れ、祈りを捧げています。
『スッと頭に入る空海の教え』6月13日発売!
真言宗の開祖であり今も「お大師さま」として多くの人から信仰を集める空海。天才であるが故に数多くの挫折や苦悩を経験しながら、当時まだ新興勢力にすぎなかった密教をいかにしてこの世に広めたのか、そこには現代にも通じる社会を生き抜くための知恵が隠されています。本書は、謎の多い空海の生涯と思想をひも解きながら現代社会を生き抜くための行動の指針や考え方のヒントを紹介していくものです。
1.空海の行動から見る教え~空海の処世術~
・四国の地方豪族出身の真魚(空海)が貴族の子弟が通う大学に入学
・官吏を目指し勉学に励むも儒教に興味が持てず大学を退学、出家
・西日本の霊場で山岳修行に励み悟りを開いて「空海」になる
・苦悩の末、大日経と出会う
・朝廷が派遣する遣唐使使節団の一員として唐へ向かう
・30日以上の漂流の末、福州に漂着。約2400㎞の道のりを経て長安へ。
・密教習得に必要な梵語を学び、中国密教の中心的人物である恵果阿闍梨から密教の全てを伝授され後継者と認められる
・「日本で密教を広めよ」という恵果の遺言を果たすため日本へ早期帰国
・朝廷との約束を破って帰国したため上京の許可が下りず筑紫に滞在
・最澄の執り成しもあり809年に入京が叶う
2.空海の考え方から見る教え ~空海の交渉術~
・南都六宗と距離を置きたい桓武天皇と最澄の活動により、密教布教の基盤が固まる
・「書」という共通点を持つ橘逸勢との交流が嵯峨天皇と結びつく
・薬子の変で乱れた国家を平穏にするため鎮護国家の修法を行ない嵯峨天皇から信任を得る
・早良親王の怨霊を鎮めるために乙訓寺の別当となり高雄山寺で最澄に持明灌頂を授ける
・自分の都合で密教の教えを求める最澄を許せず経典の貸与を拒否。2人の関係が途絶える
・都から離れた紀伊山地に位置する高野山を真言密教の修禅道場として開創する
・唐で学んだ最先端の技術を駆使して故郷に貢献。築池別当として満濃池の修築工事を完遂する
・嵯峨天皇より東寺を賜り国立寺院だった東寺を密教の根本道場に再編する
・さまざまな学問を学べる庶民のための学校、綜藝種智院を設立する
・密教の基盤強化のために病を押して活動し弟子たちに具体的な指示を残して入定する
3.空海が完成させた密教とは ~密教の教え~
・鎮護国家思想の学問から現世利益の仏教へ。これまでの仏教と空海が持ち帰った密教の違い
・密教の最終目標はその身のまま仏になること。正しく三蜜加持を行なえば即身成仏できる
・両手を合わせて印を結び仏と一体化して真実の言葉である真言を唱え仏の加護を得る
・密教を経典や注釈書だけで理解するのは困難なため大宇宙の本質を仏の配置で表現した曼荼羅で把握する
・仏の区分は如来・菩薩・明王・天の4種類。それぞれの仏の違いと特徴を知る
・護摩行は密教の修法の一つ。大日如来の智慧の火で煩悩を焼き払う
4.弘法大師の教えを感じる場所 ~弘法大師信仰~
・最澄に遅れること55年、空海がとうとう弘法大師になる
・人智の及ばない出来事から人々を守る密教の教えと弘法大師・空海への感謝が、弘法大師信仰として定着
・修行のための巡礼路だった「四国辺路」が一般庶民の間に広がり「四国遍路」として定着する
・空海の足跡をたどりながら自分を見つめ直す。全長約1400㎞の四国八十八ケ所巡り
・四国遍路をしたいが四国まで行けない人のために全国各地で四国霊場を模した「地四国」が開かれる
・水にまつわる伝説が多い?全国各地に点在する弘法水伝説と開湯伝説
・「うどん県・香川」の産みの親は空海だった?空海が唐から持ち帰ったと伝わる食べ物
【監修者】吉田 正裕(よしだ しょうゆう)
広島県廿日市市出身、真言宗御室派大本山大聖院第77代座主。2008~2018年総本山仁和寺本山布教師。2018~2022年総本山仁和寺執行長、真言宗御室派宗務総長。宗教事業にかかわらず、宮島、広島の地域活動、文化活動などを幅広く行なっている。
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