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空海の寺といえば東寺~東寺は密教の根本道場

嵯峨天皇は823年1月、空海に東寺を下賜しました。実はこの時、東寺はまだ建設中でした。本堂である金堂は完成していましたが、それ以外の工事は進んでいなかったのです。

空海は工事を引き継ぐ形で東寺に入り、境内の中央に密教の教えの中心となる講堂を建立。密教の最高仏である大日如来(だいにちにょらい)を祀り、仏像を並べて曼荼羅の世界を視覚的に表現する「羯磨曼荼羅(かつままんだら)(いわゆる立体曼荼羅)」を配置しました。さらに五重塔を建立して寺観も整備。東寺を「密教の根本道場」と位置付け「国家鎮護の官立寺院」と「密教の教え」を両立させたのです。

空海が修行した寺

空海が得度した寺・和泉国槇尾山寺(槇尾山施福寺)

正確なところは不明ですが、空海は平城京にほど近い大安寺(だいあんじ)などで仏教を学んだといわれ、高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)には「20歳の時、和泉国槇尾山寺(いずみのくにまきのおさんじ)(現在の槇尾山施福寺(ふくせじ))で得度。当初は教海(きょうかい)と名乗っていたが、後に如空(にょくう)に改めた」と伝わっています。

虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)の修行は静かな山林で行うのが良いとされ、修行の場所としては吉野山(よ しのやま)の比蘇寺(ひそでら)(現在の世尊寺(せそんじ))が有名でした。出家した空海は吉野山や高野山で山林修行をしながら、奈良の寺で仏教について学んでいたようです。

空海が大日経と出合った寺・久米寺

修行中の空海は「こんなに探しているのに、道が見えない」という絶望を抱えながら、各寺を巡って仏典を集め、研究していたようです。さまざまな仏典を読んでも満足ができないという苦悩の中、「久米寺(くめでら)の東塔に、お前が求めている経典がある」という夢のお告げを受け、大日経を発見します。久米寺の経典の内容に感銘を受けた空海は、この時の喜びを「精誠感(せいせいかん)あって、この秘門を得(ひもん)たり(自分の真心が通じ、密教に会うことができた)」と『性霊集』で述べています。

空海が遣唐使時代に学んだ唐の寺

長安で空海が寄宿先とした西明寺(さいみょうじ)(現在の陝西省(せいせんしょう)西安市(せいあんし))は、656年に創建された仏教寺院です。インドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)をモデルに建立したと伝わる巨大な寺で、数多くの留学僧がここに滞在していました。

その後、空海は密教を正しく理解するために必要だった梵語を醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵(はんにゃさんぞう)で学んでいます。醴泉寺で学び認められたことで、空海の師匠となる恵菓阿闍梨との出会いにつながりました。

空海は、805年5月下旬には梵語の習得を終えて、青龍寺東塔院(せいりゅうじとうとういん)に恵果阿闍梨を尋ねています。青龍寺で、空海はわずか3カ月で密教の全てを授かりました。青龍寺の恵果阿闍梨は、出会ってすぐに空海の資質を見抜き自分の後継者として見定めたようで、ただちに灌頂(かんじょう)(阿闍梨の資格を得るための儀式)を受けるように勧めました。空海は学習と同時進行で儀式を受け、8月上旬の灌頂で伝法阿闍梨となり遍照金剛(へんじょうこんごう)の法号を授けられた空海は、真言密教の両部(胎蔵界と金剛界)の教えを伝授する資格を得たのでした。

空海が拠点とした寺

唐から帰国した空海が拠点とした寺

806年10月ごろに唐から帰国した空海は、太宰府(だざいふ)の観世音寺(かんぜおんじ)を拠点に真言密教(しんごんみっきょう)を広めていきました。空海は謹慎中ともいえる状態ではありますが、比較的自由に動き回って各地で布教しており、朝廷が空海の行動を監視している様子もないため、罰するつもりはなかったのでしょう。すぐに上京させなかったのは、朝廷内の権力争いも関わっていたようです。

空海が上京を許されたのは809年のこと。まずは和泉国槇尾山寺(いずみのくにまきのおさんじ)(現在の槇尾山施福寺(まきのおさんせふくじ))に滞在し、7月になってから入京して高雄山寺(たかおさんじ)(現在の神護寺(じんごじ))に入っています。平城天皇の譲位により嵯峨(さが)天皇が即位したのが809年4月1日なので、「嵯峨天皇即位のタイミングで上京許可が出た」と考えることもできるでしょう。

空海が最澄との交流が始まった寺・高雄山寺

入京を許された空海は、和泉国槇尾山寺(いずみのくにまきのおさんじ)を出て高雄山寺(現在の神護寺(じんごじ))に入山しました。高雄山寺は、781年に建立された和気(わけ)氏の菩提寺。発願者は和気清麻呂(わけのきよまろ)で、山岳修行道場を志す僧侶たちの道場として建てられたと考えられています。

高雄山寺は「密教の拠点となる最澄ゆかりの寺院」として注目されていました。そこに密教布教を目指す空海が入山できたのは、最澄の働きかけがあったのかもしれません。空海が乙訓寺(おとくにでら)(長岡京市)の別当(べっとう)に任じられてこの地を離れるまで、高雄山寺を中心に親交が続けられることになります。

空海が最澄と初めて対面した寺・乙訓寺

入京後約2年間、高雄山寺に滞在していた空海でしたが、811年11月9日に嵯峨(さが)天皇から乙訓寺の別当に任命され、乙訓寺に移り住みました。乙訓寺は早良親王(藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件に巻き込まれて憤死)が幽閉されていた寺であり、空海の別当就任には「密教の祈祷で早良親王の怨霊を鎮める」という思惑もあったといわれています。

812年10月27日、乙訓寺に滞在していた空海のもとに最澄が訪ねてきました。最澄と空海は経典の貸し借りを通じて高雄山寺で交流がありましたが、対面したのはこのときが初めて。最澄は空海に「密教の灌頂を受けたい」と願い出ました。最澄は空海より7歳年上であり、平安仏教の最高僧に位置付けられるほど高い地位にありました。その後、修行についての見解で決別していくことになる空海と最澄。ふたりの最初の対面は乙訓寺だったのでした。

空海が開創した寺

空海が創建した福岡の寺

密教を広めるために唐から帰国した空海は、朝廷から入京の許しを得ることができませんでした。空海はその間、太宰府の観世音寺に止住(しじゅう)させられていました。空海は今いる場所で密教を広めればいいと考えたのか、筑紫国を拠点に布教活動を行っています。

空海が帰国直後の806年には、真言密教が東方に長く伝わるようにと祈願して東長寺(とうちょうじ)(福岡県福岡市)を建立。空海が創建した寺としては最古とされており、五重塔には空海が持ち帰ったといわれる仏舎利(ぶっしゃり)( 釈迦(しゃか)の遺骨)が納められています。また宗像大社(むなかたたいしゃ)の近くにある洞窟で修行をした際には「この地は国家鎮護を祈る霊場である」というお告げを受け鎮国寺(ちんこくじ)(福岡県宗像市)を開創しました。

帰国後に滝行をしたと伝わる若杉山明王院(わかすぎさんみょうおういん)や、若杉山で修行をした際に庵(いおり)を結んだ地に建つという太祖山金剛頂院(たいそさんこんごうちょういん)(いずれも福岡県篠栗町(ささぐりまち))など、さまざまな足跡を残しています。807年2月には大宰少弐(だざいのしょうに)(大宰府の次官)の母親の法要を密教様式で行うなど、密教の教えを着実に広めていったようです。

空海開基と伝わる寺

空海が滞在していたとされる観世音寺は天智(てんじ)天皇発願の寺院で、761年には戒壇院(かいだんいん)も設けられた大寺院(当時戒壇院は、東大寺(とうだいじ)、観世音寺、下野薬師寺(しもつけやくしじ)の3カ所のみ)です。この寺で学ぶことも多かったでしょうが、学び終わった後はどうしたでしょう。太宰府滞在期間は記録が少ないのですが、九州、山陽、四国などを巡礼して密教を広めていたという説があります。例えば大聖院(だいしょういん)(広島県廿日市市(はつかいちし))は806年、善通寺(ぜんつうじ)(香川県善通寺市)、最御崎寺(ほつみさきじ)津照寺(しんしょうじ)金剛頂寺(こんごうちょうじ)(いずれも高知県室戸市(むろとし))は807年空海開基と伝わる寺で、「空海の修行地」や「空海開基」は全国各地に点在しています。

さすがの空海も東北や関東に足を運ぶのは難しかったと思いますが、善通寺は空海の出生地のすぐ近くであり、室戸岬は空海が悟りを開いた場所です。滞在地に指定された筑紫国と、出生地である四国、その中継地点である山陽地方くらいであれば、実際に出向いていても自然に思えます。

満濃池修築工事の際に空海が開基と伝わる寺・神野寺

空海は唐に滞在中、密教以外にもさまざまな技術を習得しています。その象徴ともいえるのが、日本最大級の農業用ため池・満濃池(香川県まんのう町)の修築です。

工事中に空海は堤防が見える高台に護摩壇(ごまだん)を作り、工事の成功を祈願したと伝わっています。その高台は現在も満濃池に残っており、「護摩壇岩」と呼ばれています。満濃池の修築は7月末に完了。空海はこの功績によって賜った報奨金を使い、満濃池のほとりに神野寺(かんのじ)を建立しています。

弘法大師(空海)信仰の寺~四国遍路の寺

11世紀、空海没後以降に始まった弘法大師信仰は、弘法大師・空海への人々の感謝から芽生え定着していきました。人間には108の煩悩(ぼんのう)がありますが、空海(弘法大師)ゆかりの寺・札所(札所) を巡礼することで煩悩を取り払い、悟りを開くことができるといわれています。空海ゆかりの寺・四国の八十八ケ所霊場を巡礼することを四国遍路と呼びます。

発心の道場と呼ばれる徳島の寺は全部で23寺です。
霊山寺、極楽寺、金泉寺、大日寺、地蔵寺、安楽寺、十楽寺、熊谷寺、法輪寺、切幡寺、藤井寺、焼山寺、大日寺、常楽寺、國分寺、観音寺、井戸寺、恩山寺、立江寺、鶴林寺、太龍寺、平等寺、薬王寺。

続く高知は、修行の道場と呼ばれて全16寺があります。
最御崎寺、津照寺、金剛頂寺、神峯寺、大日寺、国分寺、善楽寺、竹林寺、禅師峰寺、雪蹊寺、種間寺、清瀧寺、青龍寺、岩本寺、金剛福寺、延光寺。

愛媛は、菩提の道。全部で26寺です。
観自在寺、龍光寺、佛木寺、明石寺、大寶寺、岩屋寺、浄瑠璃寺、八坂寺、西林寺、浄土寺、繁多寺、石手寺、太山寺、圓明寺、延命寺、南光坊、泰山寺、栄福寺、仙遊寺、国分寺、横峰寺、香園寺、宝寿寺、吉祥寺、前神寺、三角寺。

最後の香川は、涅槃の道場。全23寺があります。
雲辺寺、大興寺、神恵院、観音寺、本山寺、弥谷寺、曼荼羅寺、出釈迦寺、甲山寺、善通寺、金倉寺、道隆寺、郷照寺、天皇寺、國分寺、白峯寺、根香寺、一宮寺、屋島寺、八栗寺、志度寺、長尾寺、大窪寺。

『スッと頭に入る空海の教え』6月13日発売!

真言宗の開祖であり今も「お大師さま」として多くの人から信仰を集める空海。天才であるが故に数多くの挫折や苦悩を経験しながら、当時まだ新興勢力にすぎなかった密教をいかにしてこの世に広めたのか、そこには現代にも通じる社会を生き抜くための知恵が隠されています。本書は、謎の多い空海の生涯と思想をひも解きながら現代社会を生き抜くための行動の指針や考え方のヒントを紹介していくものです。

1.空海の行動から見る教え~空海の処世術~

・四国の地方豪族出身の真魚(空海)が貴族の子弟が通う大学に入学
・官吏を目指し勉学に励むも儒教に興味が持てず大学を退学、出家
・西日本の霊場で山岳修行に励み悟りを開いて「空海」になる
・苦悩の末、大日経と出会う
・朝廷が派遣する遣唐使使節団の一員として唐へ向かう
・30日以上の漂流の末、福州に漂着。約2400㎞の道のりを経て長安へ。
・密教習得に必要な梵語を学び、中国密教の中心的人物である恵果阿闍梨から密教の全てを伝授され後継者と認められる
・「日本で密教を広めよ」という恵果の遺言を果たすため日本へ早期帰国
・朝廷との約束を破って帰国したため上京の許可が下りず筑紫に滞在
・最澄の執り成しもあり809年に入京が叶う

2.空海の考え方から見る教え ~空海の交渉術~

・南都六宗と距離を置きたい桓武天皇と最澄の活動により、密教布教の基盤が固まる
・「書」という共通点を持つ橘逸勢との交流が嵯峨天皇と結びつく
・薬子の変で乱れた国家を平穏にするため鎮護国家の修法を行ない嵯峨天皇から信任を得る
・早良親王の怨霊を鎮めるために乙訓寺の別当となり高雄山寺で最澄に持明灌頂を授ける
・自分の都合で密教の教えを求める最澄を許せず経典の貸与を拒否。2人の関係が途絶える
・都から離れた紀伊山地に位置する高野山を真言密教の修禅道場として開創する
・唐で学んだ最先端の技術を駆使して故郷に貢献。築池別当として満濃池の修築工事を完遂する
・嵯峨天皇より東寺を賜り国立寺院だった東寺を密教の根本道場に再編する
・さまざまな学問を学べる庶民のための学校、綜藝種智院を設立する
・密教の基盤強化のために病を押して活動し弟子たちに具体的な指示を残して入定する

3.空海が完成させた密教とは ~密教の教え~

・鎮護国家思想の学問から現世利益の仏教へ。これまでの仏教と空海が持ち帰った密教の違い
・密教の最終目標はその身のまま仏になること。正しく三蜜加持を行なえば即身成仏できる
・両手を合わせて印を結び仏と一体化して真実の言葉である真言を唱え仏の加護を得る
・密教を経典や注釈書だけで理解するのは困難なため大宇宙の本質を仏の配置で表現した曼荼羅で把握する
・仏の区分は如来・菩薩・明王・天の4種類。それぞれの仏の違いと特徴を知る
・護摩行は密教の修法の一つ。大日如来の智慧の火で煩悩を焼き払う

4.弘法大師の教えを感じる場所 ~弘法大師信仰~

・最澄に遅れること55年、空海がとうとう弘法大師になる
・人智の及ばない出来事から人々を守る密教の教えと弘法大師・空海への感謝が、弘法大師信仰として定着
・修行のための巡礼路だった「四国辺路」が一般庶民の間に広がり「四国遍路」として定着する
・空海の足跡をたどりながら自分を見つめ直す。全長約1400㎞の四国八十八ケ所巡り
・四国遍路をしたいが四国まで行けない人のために全国各地で四国霊場を模した「地四国」が開かれる
・水にまつわる伝説が多い?全国各地に点在する弘法水伝説と開湯伝説
・「うどん県・香川」の産みの親は空海だった?空海が唐から持ち帰ったと伝わる食べ物

【監修者】吉田 正裕(よしだ しょうゆう)

広島県廿日市市出身、真言宗御室派大本山大聖院第77代座主。2008~2018年総本山仁和寺本山布教師。2018~2022年総本山仁和寺執行長、真言宗御室派宗務総長。宗教事業にかかわらず、宮島、広島の地域活動、文化活動などを幅広く行なっている。

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