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空海の入京が実現したのは、最澄のおかげ?
通常であれば遣唐使は、太宰府(だざいふ)にしばらく滞在した後に上京するのですが、留学期間20年の約束で入唐した留学僧(空海)が、わずか2年で帰国するなど約束違反です。朝廷から空海の入京許可は出ず、空海は大宰府にとどまることになりました。
最澄の取りなしもあって、空海は入京が実現
空海の入京が実現したのは、最澄の影響力も大きいのです。最澄はもともと短期留学の予定だったので、天台山(てんだいさん)で学んだ後に805年7月に正規のルートで帰国しました。最澄は帰国後すぐに桓武天皇の病気平癒の祈祷を行い、平城天皇からも厚く帰依されていました。
最澄はもともと天台山で天台宗(てんだいしゅう)を学ぶために入唐したのですが、越州(えっしゅう)の霊厳寺(れいがんじ)で密教も学んでいます。空海が上奏した御請来目録(ごしょうらいもくろく)を見て「自分の学んだ密教には足りない部分がある」と感じたのでしょう。空海から密教を学ぶため、空海が上京できるように取りなしたともいわれています。
最澄が基礎を固め、空海が確立した密教
最澄は13歳で近江国分寺(おうみこくぶんじ)に入門し、19歳のときに東大寺で出家しました。出家後は東大寺に残らず比叡山(ひえいざん)に入り、天台宗(てんだいしゅう)を学んでいます。桓武天皇は天台宗を好み、最澄が比叡山で開いた天台宗の法会(ほうえ)を賞賛していました。最澄が桓武天皇から容認されたことで、主流宗派でなかった天台宗が朝廷内で受け入れられていったのです。
天台宗の教えを深めたいと考えた最澄は、804年9月に入唐し天台山で天台教学と禅を学習します。越州(えっしゅう)の寺院で密教の伝法を受けて、805年7月に帰国しました。南都六宗を遠ざけたい桓武天皇は、最澄が持ち帰った密教に期待。806年には天台宗に2名(法華経(ほけきょう)1名、密教1名)の年分度者(ねんぶんどしゃ)が与えられ、最澄により密教布教の基盤が作られたのでした。
空海は最澄の動きを予想し、時が来るのを待つ
空海が越州に赴いたのは806年の春~夏頃なので、帰国前には最澄が自分より先に密教を持ち帰ったことを知ったはずです。内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)(宮中で天皇の安穏を祈る僧侶)に任ぜられている最澄なら献上した御請来目録(ごしょうらいもくろく)を目にするだろうし、それを見て最澄が「自分の学びが不十分だった」と気付くと空海は踏んだのかもしれません。
空海は、密教が朝廷内で注目されており、最澄が密教のさらなる学びを求めていることを予想していましたが、自ら朝廷に働きかけることはありませんでした。空海には、朝廷はいずれ自分を必要とし上京を許すはずだという自信があり、その時期が来るのを太宰府で待っていたのです。
空海と最澄の交流は、京都の高雄山寺で始まった
入京を許された空海は、和泉国槇尾山寺(いずみのくにまきのおさんじ)を出て高雄山寺(現在の神護寺(じんごじ))に入山しました。高雄山寺は781年に建立された和気(わけ)氏の菩提寺です。発願者は和気清麻呂(わけのきよまろ)で、山岳修行道場を志す僧侶たちの道場として建てられたと考えられています。
和気清麻呂は宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)神託事件に巻き込まれて流罪になった経験から、南都六宗に代わる新しい仏教に期待を寄せていました。彼の息子たちは父の遺志を継承し、比叡山(ひえいざん)で天台宗(てんだいしゅう)の修行をしていた最澄に注目。802年1月には最澄を高雄山寺に招き、天台宗の講義を依頼しています。桓武(かんむ)天皇はこの講義を高く評価。最澄が唐から帰国した805年9月には、桓武天皇の命により高雄山寺で日本最初の密教灌頂(かんじょう)が実施されています。現在の神護寺は「弘法大師霊場」として知られていますが、もともとは最澄の拠点寺院だったのです。
空海が最澄ゆかりの高雄山寺に入山する
高雄山寺は「密教の拠点となる最澄ゆかりの寺院」として注目されていました。そこに密教布教を目指す空海が入山できたのは、最澄の働きかけがあったのかもしれません。
自分の学びが不十分だと感じていた最澄にとっては、「今後空海からいろいろ学ぶためには、空海が自分と関係のある寺にいてくれた方が何かと都合が良い」という思惑もあったでしょう。空海が高雄山寺に入山した時期は定かではありませんが、最澄が809年8月24日付で経典借用状(空海が唐から持ち帰った密教経典12部の借覧を依頼する手紙)を出していることから、遅くとも同年8月中旬には入山したと思われます。
最澄が空海に経典の借用を依頼
空海は恵果阿闍梨(けいかあじゃり)の後継者で密教の全てを会得していますが、日本の仏教界ではまだ無名の存在。天皇のそば近くに仕える最澄とは身分の差もありました。しかし最澄は空海が献上した御請来目録(ごしょうらいもくろく)から彼の才能や学びの深さを理解していました。自分より7歳年下の何の肩書きもない空海に対して、礼儀を尽くした丁寧な手紙を送っています。空海が最澄の求めに応じる形で、両者の交流はスタートします。空海が乙訓寺(おとくにでら)(長岡京市)の別当(べっとう)に任じられてこの地を離れるまで、高雄山寺を中心に親交が続けられることになります。
空海から密教の灌頂を受けたいと最澄が願い出る
入京後約2年間高雄山寺に滞在していた空海でしたが、811年11月9日に嵯峨(さが)天皇から乙訓寺の別当に任命され、乙訓寺に移り住みます。乙訓寺は早良親王(藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件に巻き込まれて憤死)が幽閉されていた寺であり、空海の別当就任には「密教の祈祷で早良親王の怨霊を鎮める」という思惑もあったといわれています。
乙訓寺で空海が最澄に灌頂を授ける
812年10月27日、乙訓寺に滞在していた空海のもとに最澄が訪ねてきました。最澄と空海は経典の貸し借りを通じて交流がありましたが、対面したのはこのときが初めて。
最澄は空海に「密教の灌頂を受けたい」と願い出ました。最澄は空海より7歳年上であり、平安仏教の最高僧に位置付けられるほど高い地位にありました。しかし手紙には「受法弟子最澄(あなたの弟子、最澄より)」と記名しており、自分の至らない部分を理解していたようです。空海は最澄の熱意を感じ取ったのか、密教の全てを授けると約束しています。
最澄は空海から、高雄山寺にて11月15日に金剛界(こんごうかい)の持明灌頂を、12月14日に胎蔵界(たいぞうかい)の持明灌頂を授けています(高雄灌頂)。
空海が高僧・最澄に「3年の修行」を求める
持明灌頂は密教初心者に行う簡易的な儀式です。一部とはいえ唐で密教を学んでいた最澄は、「今回は持明灌頂だったが、近いうちに伝でんぼう法灌頂( 阿闍梨(あじゃり)の位を得るための灌頂)を受けられる」と思ったのでしょう。空海に「伝法灌頂はいつごろ受けられるか?」と問いました。これに対して空海は「3年後」と回答します。空海の中には「密教の本質は文字では伝わらない。密教を学ぶには修行や対面での伝授が必要」という信念があり、修行をしていないものに伝法灌頂を授けるつもりはなかったのです。
最澄は空海のこの「3年」という言葉に、落胆したようです。比叡山(ひえいざん)を預かり天台宗の開祖としての仕事がある最澄には、3年間も密教修行に専念する余裕はありません。そこで最澄は空海のもとに2人の弟子を送り、自分の代わりに密教を学ばせることにしました。「学問として密教を習得したい」という最澄の思いと、「密教は体で覚えるものだ」という空海の考え方の違いが2人の決別につながっていくのです。
空海と最澄、経典の貸与を機に関係が途絶える
空海から「密教の全てを伝授するにはあと3年かかる」と告げられた最澄は、かなりショックだったでしょう。もともと最澄は空海より僧歴が長く、仏経界では高い地位にあります。密教についても事前に一部を学んでいたため、「空海同様、数カ月もあれば全てを習得できるだろう」と考えていたかもしれません。
しかし空海の根底には「密教の教えは文字(経典)で伝えられるものではない。師と弟子が向き合い、口伝で教えを受けるものだ」という信念があります。空海は経典を読んだだけで真髄(しんずい)を理解しようとする最澄の態度には、納得がいかなかったのでしょう。ただ最澄には、空海のもとで3年間も修行する時間はありません。そこで「自分の代わりに学んでくるように」と、弟子を空海に預けています。最澄には、なんとしても早急に密教の全てを学ばねばならない理由があったのです。
密教経典が必要だった最澄側の事情
最澄はこの時すでに天台宗(てんだいしゅう)を開宗しており、朝廷から天台教学を学ぶ者(止観業(しかんごう))1名と、密教を学ぶ者(遮那業(しゃなごう))1名、計2名の年分度者(ねんぶんどしゃ)(1年間の出家得度の定員)を認められています。天台教学は最澄の専門分野なので問題なく指導できますが、密教については空海ほど深く学んでいません。遮那業の年分度者を正しく導くには密教の専門家である空海の助力が必要だったのです。
加えて最澄は、比叡山(ひえいざん)の一切経蔵(いっさいきょうぞう)(仏典を収める書庫)を整備するという目標も掲げていました。研究のためには資料となる経典の充実が不可欠であり、そのためには空海が唐から持ち帰った密教経典を書写する必要があったのです。最澄から空海に宛てた書簡は25通現存していますが、約半数が経典借用依頼か返還に関するもの。最澄は密教の教えに加え、「密教経典そのもの」も求めていたのです。
価値観の相違により、空海と最澄の交流が途絶える
813年11月23日、最澄は「釈理趣経(しゃくりしゅうきょう)(理趣経の注釈書)を来月中旬まで貸していただけないだろうか」と願い出ました。従来通り丁寧な文面の依頼に対し、空海は長文の返書をもってきっぱりと拒否しました。「密教は以心伝心を大事にしており、文章(経典)は糟粕(そうこう)や瓦礫(がれき)にすぎない。実践経験のないあなたにこの経典を学ぶ資格はない」「名誉や利益のために密教の教えを求めるのは正しい道ではない。ただひたすら密教の教えを求める心こそ求道の志だ」と激怒しています。
空海にとって最澄側の事情は「己の利益や立場のために密教を利用している」としか映らなかったようです。この手紙を最澄がどう受け止めたかは伝わっていませんが、「これ以上分かり合うことはできない」と感じたのでしょう。以降の手紙は経典の返還に関するものだけになり、817年以降は手紙のやり取りも途絶えています。
最澄は本当に礼を尽くして空海に依頼していたのか
最澄が礼を尽くして依頼しているのに拒否するなど冷たいではないかと考える人もいるかもしれません。ただ最澄が本心から「礼を尽くしていたか」は手紙から読み取ることができません。この時代の手紙は、公文書や手紙などの書式を記した『書儀(しょぎ)』(中国の礼書(らいしょ))に沿って書かれることが多いのです。いわゆる「取引先に失礼がないよう、用語や範例をまとめたビジネス文書用例集」のようなものがあり、最澄はその書式や用例を忠実に守って丁寧な手紙を書いています。
一方、空海の手紙は『書儀』に沿ってはいますが文学的な表現が多く、「相手に失礼がないよう注意しながら、自分の言葉で語っている」とも考えられるのです。空海は最澄のビジネスライクな態度にいらだちを覚えたのかもしれません。
空海のもとに留まった最澄の愛弟子
泰範は、最澄の愛弟子で「最澄の後継者」と目されていた人物でしたが、空海と最澄が決別したのちも、空海のもとに留まっています。最澄は泰範に戻ってきてほしかったようで、たびたび「比叡山(ひえいざん)に戻ってこないか」と連絡しています。
816年5月1日には「法華一乗(ほっけいちじょう)と真言一乗(しんごんいちじょう)と、何ぞ優劣有らん(天台宗と真言宗には優劣はなく、何ら相違はない)」「もし深き縁あらば、倶(とも)に生死に住して、同じく群生(ぐんしょう)を負わん(もし縁があるなら、あなたと一緒に多くの人々を救いたい)」と懇願のような手紙を出しています。
しかしそれに返信したのは泰範ではなく空海でした。空海は「天台宗と真言宗は別物である」「真言宗の教えに帰依した泰範を責めないでほしい」と代筆しています。最澄からすれば、泰範からの絶縁状と思えたでしょう。泰範はその後も比叡山に戻らず、空海を支え続けました。空海が高野山を下賜(かし)された際には先遣隊として山に入り、高野山整備に尽力しています。
『スッと頭に入る空海の教え』好評発売中!
真言宗の開祖であり今も「お大師さま」として多くの人から信仰を集める空海。天才であるが故に数多くの挫折や苦悩を経験しながら、当時まだ新興勢力にすぎなかった密教をいかにしてこの世に広めたのか、そこには現代にも通じる社会を生き抜くための知恵が隠されています。本書は、謎の多い空海の生涯と思想をひも解きながら現代社会を生き抜くための行動の指針や考え方のヒントを紹介していくものです。
1.空海の行動から見る教え~空海の処世術~
・四国の地方豪族出身の真魚(空海)が貴族の子弟が通う大学に入学
・官吏を目指し勉学に励むも儒教に興味が持てず大学を退学、出家
・西日本の霊場で山岳修行に励み悟りを開いて「空海」になる
・苦悩の末、大日経と出会う
・朝廷が派遣する遣唐使使節団の一員として唐へ向かう
・30日以上の漂流の末、福州に漂着。約2400㎞の道のりを経て長安へ。
・密教習得に必要な梵語を学び、中国密教の中心的人物である恵果阿闍梨から密教の全てを伝授され後継者と認められる
・「日本で密教を広めよ」という恵果の遺言を果たすため日本へ早期帰国
・朝廷との約束を破って帰国したため上京の許可が下りず筑紫に滞在
・最澄の執り成しもあり809年に入京が叶う
2.空海の考え方から見る教え ~空海の交渉術~
・南都六宗と距離を置きたい桓武天皇と最澄の活動により、密教布教の基盤が固まる
・「書」という共通点を持つ橘逸勢との交流が嵯峨天皇と結びつく
・薬子の変で乱れた国家を平穏にするため鎮護国家の修法を行ない嵯峨天皇から信任を得る
・早良親王の怨霊を鎮めるために乙訓寺の別当となり高雄山寺で最澄に持明灌頂を授ける
・自分の都合で密教の教えを求める最澄を許せず経典の貸与を拒否。2人の関係が途絶える
・都から離れた紀伊山地に位置する高野山を真言密教の修禅道場として開創する
・唐で学んだ最先端の技術を駆使して故郷に貢献。築池別当として満濃池の修築工事を完遂する
・嵯峨天皇より東寺を賜り国立寺院だった東寺を密教の根本道場に再編する
・さまざまな学問を学べる庶民のための学校、綜藝種智院を設立する
・密教の基盤強化のために病を押して活動し弟子たちに具体的な指示を残して入定する
3.空海が完成させた密教とは ~密教の教え~
・鎮護国家思想の学問から現世利益の仏教へ。これまでの仏教と空海が持ち帰った密教の違い
・密教の最終目標はその身のまま仏になること。正しく三蜜加持を行なえば即身成仏できる
・両手を合わせて印を結び仏と一体化して真実の言葉である真言を唱え仏の加護を得る
・密教を経典や注釈書だけで理解するのは困難なため大宇宙の本質を仏の配置で表現した曼荼羅で把握する
・仏の区分は如来・菩薩・明王・天の4種類。それぞれの仏の違いと特徴を知る
・護摩行は密教の修法の一つ。大日如来の智慧の火で煩悩を焼き払う
4.弘法大師の教えを感じる場所 ~弘法大師信仰~
・最澄に遅れること55年、空海がとうとう弘法大師になる
・人智の及ばない出来事から人々を守る密教の教えと弘法大師・空海への感謝が、弘法大師信仰として定着
・修行のための巡礼路だった「四国辺路」が一般庶民の間に広がり「四国遍路」として定着する
・空海の足跡をたどりながら自分を見つめ直す。全長約1400㎞の四国八十八ケ所巡り
・四国遍路をしたいが四国まで行けない人のために全国各地で四国霊場を模した「地四国」が開かれる
・水にまつわる伝説が多い?全国各地に点在する弘法水伝説と開湯伝説
・「うどん県・香川」の産みの親は空海だった?空海が唐から持ち帰ったと伝わる食べ物
【監修者】吉田 正裕(よしだ しょうゆう)
広島県廿日市市出身、真言宗御室派大本山大聖院第77代座主。2008~2018年総本山仁和寺本山布教師。2018~2022年総本山仁和寺執行長、真言宗御室派宗務総長。宗教事業にかかわらず、宮島、広島の地域活動、文化活動などを幅広く行なっている。
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