更新日: 2024年6月26日
空海と最澄との関係をひもとく~遣唐使として同時期に唐で密教を学んだ空海と最澄。出会いから交流から破綻に至るまで
空海と7歳上の最澄。出会った当初、空海は無名の僧、最澄は仏教界では既に名の知れた僧でした。同じ第16次遣唐使として唐へ渡った空海と最澄ですが、帰国後、密教を重んじる二人の関係は複雑に絡んでいきます。
目次
空海と最澄の出会いは、第16次遣唐使節団?
空海たち第16次遣唐使節団の補充人員は、太宰府で最澄のいる本隊と合流しました。外海を渡る準備を整えるため数日間滞在したといわれます。空海も最澄と同じ鴻臚館に宿泊したと考えられますが、2人が交流したという記録はありません。またこの時の遣唐使船は4隻ですが、空海は第1船、最澄は第2船に乗っています。ごく近い場所にはいたのでしょうが、お互いがお互いを知らなかった可能性の方が高いかもしれません。
そもそも最澄は弟子や通訳の帯同を許可された請益僧であり、すでに仏教界では名の知れた存在です。一方空海は自ら悟りを開いたとはいえ、官度僧(かんどそう)になって1年未満の無名僧。たとえ顔を合わせたとしても、気軽に話し掛けられる関係ではなかったように思われます。
最澄は1年間かけて入唐を決意
最澄はどのように、唐入りに至ったのでしょうか。第16次遣唐使派遣が朝廷内で決定したのは801年のこと。藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)が大使、石川道益(いしかわのみちます)が副使に任命されたのが8月10日なので、正式な発表はこの時期だったのではないかと思われます。
空海は2度目の第16次遣唐使派遣の情報を知ってすぐに入唐を希望していますが、最澄は1年近く熟考・検討しました。入唐を申し出たのは802年9月8日です。空海のような身軽な身分ではないため自分の意思で即決するのは難しいのでしょうが、かなり慎重に物事を進めているように見えます。
遣唐使に参加した最澄の目的
最澄はこの時37歳。内供奉(ないぐぶ)十禅師(じゅうぜんじ)(宮中で国家鎮護を祈祷する僧侶)の地位を得ており、通訳と従者が同伴するなど、今ふうに言うとVIP待遇です。唐に長期滞在して仏教を学ぶ留学僧ではなく、学業を修め一家を成した者が視察を含めて短期留学する請益僧(しょうやくそう)という扱いで、渡海の目的は天台山(てんだいさん)で天台宗(てんだいしゅう)を学ぶことでした。
最澄の乗った1度目の第16次遣唐使船は
最澄の乗った船は803年4月16日に出港しますが、残念ながら国内で暴風雨に遭い渡海を断念。乗船していた留学生や留学僧、最澄たちは太宰府(だざいふ)の鴻臚館(こうろかん)(現在の福岡市中央区付近)に待機して、船の修理や人員・物資の補充(空海たち)が終わるのを待つことになりました。当時の太宰府は政府の機関が置かれる要衝で、東アジアの交流拠点として賑わっていました。鴻臚館は迎賓館のような役割も果たしていたから、使節団の滞在にはちょうど良かったのでしょう。
最澄の乗った2度目の第16次遣唐使船は
空海が乗る第1船が漂流、第3・4船が太宰府(だざいふ)に引き返したのに対して、最澄の乗っていた第2船の航海は比較的順調でした。7月7日の嵐は無事に切り抜けたようで、7月上旬にはすでに明州鄮県(ぼうけん)(現在の浙江省(せっこうしょう))に到着しています。
7月25日に副使の石川道益(いしかわのみちます)が病没したため、8月中は明州に滞在。9月1日には判官の菅原清公(すがわらのきよきみ)が総勢27名を率いて出発し、11月15日に長安に入っています。最澄は長安に向かわず明州から直接天台山(てんだいさん)に向かっているため、空海と最澄が唐で出会うことはなかったようです。
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