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空海と恵果阿闍梨の出会い

空海がいつごろから漢語(中国語)を学んでいたかは分かりません。しかし福州(ふくしゅう)の長官が空海の文章を読んで感銘を受けていることから、入唐した時にはすでに漢語の読み書きは完璧だったようです。梵語(ぼんご)の師匠となってくれた般若三蔵(はんにゃさんぞう)とは漢語でやりとりしていたでしょうから、会話や聞き取りも問題なくできたのでしょう。漢語という下地があったからか梵語の習得も非常に早かったようで、805年5月下旬には梵語の習得を終えて青龍寺東塔院(せいりゅうじとうとういん)に恵果阿闍梨を尋ねています。

恵果阿闍梨と出会い大歓迎される空海

空海が師匠に選んだ恵果阿闍梨とは、どのような人物だったのでしょうか。恵果阿闍梨は青龍寺の和尚で当時61歳。20歳のときに不空三蔵(ふくうさんぞう)から密教を授かり、伝法(でんぼう)阿闍梨(真言密教を他人に伝授する資格を与えられた僧侶)となり、多くの弟子を育ててきました。密教には胎蔵界(たいぞうかい)(大日経(だいにちきょう))と金剛界(こんごうかい)(金剛頂経(こんごうちょうぎょう))の二つの世界(部)がありますが、恵果阿闍梨は両方の世界を正しく深く理解しており、密教の全てを伝えることができる一流の人物でした。

空海と対面した恵果は大いに喜び、「私は以前から、いつかあなたが来るだろうと思って待っていた。ようやくあなたに会えて、本当にうれしい」と語ったといいます。

恵果阿闍梨は出会ってまもなく空海を後継者として定める

このころ恵果阿闍梨は体調を崩しており、後継者不在に悩んでいました。以前から評判を耳にしていた空海が自分に会いに来るのを心待ちにしていたのでしょう。恵果阿闍梨は空海に出会ってすぐに空海の資質を見抜き自分の後継者として見定めたようで、ただちに灌頂(かんじょう)(阿闍梨の資格を得るための儀式)を受けるように勧めています。

渡航前の念入りな下準備があったからこそ

空海は恵果阿闍梨から最先端かつ最高の密教を授けられ、わずか数カ月の間に胎蔵界と金剛界の二つの世界を完全に理解したようです。梵語の事前学習が大いに役立ったようで、恵果阿闍梨も「漢語も梵語も同じように使いこなしている」と感心しています。学習と同時進行で儀式も受けており、6月上旬·7月上旬·8月上旬の3回にわたって灌頂を受法。8月上旬の灌頂で伝法阿闍梨となり遍照金剛(へんじょうこんごう)の法号を授けられた空海は、真言密教の両部(胎蔵界と金剛界)の教えを伝授する資格を得ました。

空海は帰国時に数多くの教典を持ち帰っていますが、持ち帰った教典のほとんどは日本国内に存在しないものでした。つまり空海は、国内にある教典に全て目を通して内容を覚え、「国内にないもの」だけを選んで持ち帰っているのです。ここまでの下準備があったからこそ、わずか3カ月で密教を完全に理解できたのではないでしょうか。

密教の系譜と伝承の流れ

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空海、恵果阿闍梨の遺言を果たすため、帰国を決意

空海は伝法阿闍梨(でんぼうあじゃり)となり、遍照金剛(へんじょうこんごう)の法号を与えられた。遍照とは毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)のことであり、大日如来(だいにちにょらい)が進化した姿が毘盧遮那仏です。

大日経(だいにちきょう)との出会いから入唐求法を志した空海には、最もふさわしく喜ばしい法号だったでしょう。空海は慣例に則って500人の僧侶を招いた斎筵(さいえん)(飲食伴う法会)を催しています。

日本に持ち帰る経典や仏具を用意

儀式が全て終わった後、空海は密教経典の書写、曼荼羅(まんだら)や仏具の製作に取り掛かりました。密教経典は写経生を雇って約300巻物を書写、曼荼羅や仏具は朝廷専属の画家と鋳(い)ものはかせ博士に新造を依頼しています。

空海が長安に到着したのは804年12月末で、留学僧として本格的に学習を始めたのは805年2月以降と推察されます。いくら真言密教の全てを学び終えたからといって、1年も経たないうちに帰国準備を始めるのは早急すぎないでしょうか。ただ空海には空海なりの思いと事情があったのでした。

恵果阿闍梨の遺言に従い帰国を決意する

恵果阿闍梨は空海を後継者と認め、自分の全てを引き継がせました。密教の伝授はもちろんですが、恵果阿闍梨は灌頂(かんじょう)後の空海に自分の衣鉢(いはつ)( 袈裟(けさ)、椀、箸など)を与えています。これらは第五祖の金剛智(こんごうち)から第六祖の不空(ふくう)へ、第六祖の不空から第七祖の恵果へと相伝されたものです。長年恵果のもとで学んできた弟子たちの中には「なぜ師事して半年足らずの留学僧が後継者なのだ」と不満を持つ者もいたでしょう。空海に衣鉢を与えることで、「空海こそ自分の後継者である」と宣言したと思われます。

恵果阿闍梨は空海に「密教については全て教えた。早く日本に帰り、この教えを広めなさい」と遺言し、805年12月15日に亡くなっています。入滅の夜には空海の前に現れて「東国に生まれ変わって、必ずあなたの弟子になろう」と告げたとも伝わります。空海が多くの弟子の中から選ばれて恵果阿闍梨の碑銘を書いたのは、書家としての実力に加えて 「恵果阿闍梨の後継者である」という部分もあったのではないでしょうか。

帰国を急いだ空海

空海が帰国を急いだのは、恵果阿闍梨の遺言通りに日本で密教を広めるためと考えられます。そもそも空海の留学期間は20年ですが、この時代の平均寿命は40歳くらい。唐で学んでいる間に寿命を迎える可能性もあるし、50代になってから帰国したのでは日本で密教を十分に広めることはできないでしょう。こうした焦りが 「早く帰国しなければ」 という思いにつながりました。実際、空海は62歳で入定しています。彼が20年の留学期間を守り51歳で帰国していたら、日本に密教は存在しなかったかもしれません。

主な人物の生年と没年(数え年)

師匠の恵果阿闍梨は60歳で亡くなっている。空海が20年後に50代で帰国した場合、密教を日本に広める時間は10年程度しか残されていない!
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『スッと頭に入る空海の教え』6月13日発売!

真言宗の開祖であり今も「お大師さま」として多くの人から信仰を集める空海。天才であるが故に数多くの挫折や苦悩を経験しながら、当時まだ新興勢力にすぎなかった密教をいかにしてこの世に広めたのか、そこには現代にも通じる社会を生き抜くための知恵が隠されています。本書は、謎の多い空海の生涯と思想をひも解きながら現代社会を生き抜くための行動の指針や考え方のヒントを紹介していくものです。

1.空海の行動から見る教え~空海の処世術~

・四国の地方豪族出身の真魚(空海)が貴族の子弟が通う大学に入学
・官吏を目指し勉学に励むも儒教に興味が持てず大学を退学、出家
・西日本の霊場で山岳修行に励み悟りを開いて「空海」になる
・苦悩の末、大日経と出会う
・朝廷が派遣する遣唐使使節団の一員として唐へ向かう
・30日以上の漂流の末、福州に漂着。約2400㎞の道のりを経て長安へ。
・密教習得に必要な梵語を学び、中国密教の中心的人物である恵果阿闍梨から密教の全てを伝授され後継者と認められる
・「日本で密教を広めよ」という恵果の遺言を果たすため日本へ早期帰国
・朝廷との約束を破って帰国したため上京の許可が下りず筑紫に滞在
・最澄の執り成しもあり809年に入京が叶う

2.空海の考え方から見る教え ~空海の交渉術~

・南都六宗と距離を置きたい桓武天皇と最澄の活動により、密教布教の基盤が固まる
・「書」という共通点を持つ橘逸勢との交流が嵯峨天皇と結びつく
・薬子の変で乱れた国家を平穏にするため鎮護国家の修法を行ない嵯峨天皇から信任を得る
・早良親王の怨霊を鎮めるために乙訓寺の別当となり高雄山寺で最澄に持明灌頂を授ける
・自分の都合で密教の教えを求める最澄を許せず経典の貸与を拒否。2人の関係が途絶える
・都から離れた紀伊山地に位置する高野山を真言密教の修禅道場として開創する
・唐で学んだ最先端の技術を駆使して故郷に貢献。築池別当として満濃池の修築工事を完遂する
・嵯峨天皇より東寺を賜り国立寺院だった東寺を密教の根本道場に再編する
・さまざまな学問を学べる庶民のための学校、綜藝種智院を設立する
・密教の基盤強化のために病を押して活動し弟子たちに具体的な指示を残して入定する

3.空海が完成させた密教とは ~密教の教え~

・鎮護国家思想の学問から現世利益の仏教へ。これまでの仏教と空海が持ち帰った密教の違い
・密教の最終目標はその身のまま仏になること。正しく三蜜加持を行なえば即身成仏できる
・両手を合わせて印を結び仏と一体化して真実の言葉である真言を唱え仏の加護を得る
・密教を経典や注釈書だけで理解するのは困難なため大宇宙の本質を仏の配置で表現した曼荼羅で把握する
・仏の区分は如来・菩薩・明王・天の4種類。それぞれの仏の違いと特徴を知る
・護摩行は密教の修法の一つ。大日如来の智慧の火で煩悩を焼き払う

4.弘法大師の教えを感じる場所 ~弘法大師信仰~

・最澄に遅れること55年、空海がとうとう弘法大師になる
・人智の及ばない出来事から人々を守る密教の教えと弘法大師・空海への感謝が、弘法大師信仰として定着
・修行のための巡礼路だった「四国辺路」が一般庶民の間に広がり「四国遍路」として定着する
・空海の足跡をたどりながら自分を見つめ直す。全長約1400㎞の四国八十八ケ所巡り
・四国遍路をしたいが四国まで行けない人のために全国各地で四国霊場を模した「地四国」が開かれる
・水にまつわる伝説が多い?全国各地に点在する弘法水伝説と開湯伝説
・「うどん県・香川」の産みの親は空海だった?空海が唐から持ち帰ったと伝わる食べ物

【監修者】吉田 正裕(よしだ しょうゆう)

広島県廿日市市出身、真言宗御室派大本山大聖院第77代座主。2008~2018年総本山仁和寺本山布教師。2018~2022年総本山仁和寺執行長、真言宗御室派宗務総長。宗教事業にかかわらず、宮島、広島の地域活動、文化活動などを幅広く行なっている。

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