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空海が中国でしたこと~中国密教の中心人物から、後継者と認められる

空海は、805年5月下旬には梵語の習得を終えて青龍寺東塔院(せいりゅうじとうとういん)に恵果阿闍梨を尋ねています。
空海と対面した恵果は大いに喜びました。このころ恵果は体調を崩しており、後継者不在に悩んでいました。以前から評判を耳にしていた空海が自分に会いに来るのを心待ちにしていたのでしょう。出会ってすぐに空海の資質を見抜き自分の後継者として見定めました。

3か月後の8月上旬の灌頂で伝法阿闍梨となり遍照金剛(へんじょうこんごう)の法号を授けられた空海は、真言密教の両部(胎蔵界と金剛界)の教えを伝授する資格を得ました。その年の12月15日に「日本で密教を広めよ」という空海への遺言を残すと、恵果は亡くなってしまいました。空海は遺言を果たすため、中国へ留学して1年経たないうちに帰国準備を始めることになりました。

空海が中国でしたこと~早期帰国が決まり、中国越州でさまざまな資料を集める

805年7月、大使の藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)が中国から帰国しました。短期留学の予定だった最澄(さいちょう)は大使と明州(めいしゅう)で合流し、一緒に帰国しています。

その直後、なぜか朝廷は中国へ次の遣唐使派遣を決定します。高階遠成を急遽遣唐使判官(はんがん)に任命し、その年のうちに出発させました。もともと遣唐使の派遣は不定期であり、途中で航行不能になった船を修復して再出発させることや、来日した随行員を唐に送り届けるために派遣することはあっても、立て続けに派遣されることはまずありません。もし高階遠成が唐からの随行員を送るために派遣されたのであれば、藤原葛野麻呂の報告書に随行員の名前や人数が記されているはずですが、その記載はありません。

東シナ海で遭難して中国へ入唐できなかった第16次遣唐使節団の第3船と第4船が改めて派遣されたとする説や、805年1月に即位した新皇帝(順宗(じゅんそう))に朝貢するためという説もありますが、高階遠成が唐に派遣された目的は明確にされていません。

空海は高階遠成に早期帰国を願い出る

高階遠成らが長安に到着したのは、空海の師である恵果(けいか)が亡くなった直後の805年12月下旬と推察されます。密教の全てを学び終え、恵果から「早く日本に帰って密教を広めなさい」と遺言された空海は、即座に帰国を訴えたようです。

高階遠成はその熱意に打たれたのか、空海の帰国を上奏(じょうそう)します。 『旧唐書』には「日本の国使である高階遠成が、『空海と橘逸勢(たちばなのはやなり)が、芸業が成功したので帰国を希望している』と伝えてきました。国使と共に帰国することを願い出ているので、許可した」という記録があります。

遣唐使判官に急遽任命され準備期間もほとんどないまま出発させられた高階遠成は非常に不運でしたが、空海にとっては幸いとなりました。もしこのとき高階遠成が上奏していなければ空海の帰国は認められず、次の遣唐使船が派遣される838年まで長安に滞在することになっていたでしょう。高階遠成は、806年3月下旬に長安を出発。空海も「20年計画の留学の成果は、十分に果たされた」という満足感のもと、橘逸勢と共に帰国の途につきました。

唐(中国)越州でさまざまな資料を集める空海

長安を発った空海は、途中で越州(現在の中国浙江省(せっこうしょう))に立ち寄り、節度使(せつどし)(土地の長官)の協力を得てさまざまな資料を収集しています。仏教教典はもちろん、文学や美術、医学など収集分野は多岐にわたり、建築学についてもここで学んだのではないかといわれています。また浙江省杭州市西湖区(こうしゅうしせいこく)の霊隠寺(れいいんじ)には空海が滞在して学んだという言い伝えもあり、越州には5カ月近く滞在したといわれます。

空海は、越州に滞在してさまざまな分野の資料を収集。その後、明州に
移動し、船で帰国の途についた
※拡大できます

空海や橘逸勢(たちばなのはやなり)を伴って長安を出発した高階遠成(たかしなのとおなり)は、越州(えつしゅう)を経由して明州(めいしゅう)に到着しました。806年8月ごろに明州の港から出港して、日本を目指しています。

空海の記録によると中国からの復路でも暴風雨に遭遇し、五島列島の福江島(ふくえじま)でしばらく停泊したようです。復路で遭難して沈没する遣唐使船もある中、往路復路ともに暴風雨に遭遇したにもかかわらず目的地に到着しているのだから、空海は本当に運が良いのでしょう。中国から復路の遣唐使船は同年10月に筑紫に到着し、空海は鴻臚館(こうろかん)(現在の福岡市中央区付近)に入りました。

『スッと頭に入る空海の教え』6月13日発売!

真言宗の開祖であり今も「お大師さま」として多くの人から信仰を集める空海。天才であるが故に数多くの挫折や苦悩を経験しながら、当時まだ新興勢力にすぎなかった密教をいかにしてこの世に広めたのか、そこには現代にも通じる社会を生き抜くための知恵が隠されています。本書は、謎の多い空海の生涯と思想をひも解きながら現代社会を生き抜くための行動の指針や考え方のヒントを紹介していくものです。

1.空海の行動から見る教え~空海の処世術~

・四国の地方豪族出身の真魚(空海)が貴族の子弟が通う大学に入学
・官吏を目指し勉学に励むも儒教に興味が持てず大学を退学、出家
・西日本の霊場で山岳修行に励み悟りを開いて「空海」になる
・苦悩の末、大日経と出会う
・朝廷が派遣する遣唐使使節団の一員として唐へ向かう
・30日以上の漂流の末、福州に漂着。約2400㎞の道のりを経て長安へ。
・密教習得に必要な梵語を学び、中国密教の中心的人物である恵果阿闍梨から密教の全てを伝授され後継者と認められる
・「日本で密教を広めよ」という恵果の遺言を果たすため日本へ早期帰国
・朝廷との約束を破って帰国したため上京の許可が下りず筑紫に滞在
・最澄の執り成しもあり809年に入京が叶う

2.空海の考え方から見る教え ~空海の交渉術~

・南都六宗と距離を置きたい桓武天皇と最澄の活動により、密教布教の基盤が固まる
・「書」という共通点を持つ橘逸勢との交流が嵯峨天皇と結びつく
・薬子の変で乱れた国家を平穏にするため鎮護国家の修法を行ない嵯峨天皇から信任を得る
・早良親王の怨霊を鎮めるために乙訓寺の別当となり高雄山寺で最澄に持明灌頂を授ける
・自分の都合で密教の教えを求める最澄を許せず経典の貸与を拒否。2人の関係が途絶える
・都から離れた紀伊山地に位置する高野山を真言密教の修禅道場として開創する
・唐で学んだ最先端の技術を駆使して故郷に貢献。築池別当として満濃池の修築工事を完遂する
・嵯峨天皇より東寺を賜り国立寺院だった東寺を密教の根本道場に再編する
・さまざまな学問を学べる庶民のための学校、綜藝種智院を設立する
・密教の基盤強化のために病を押して活動し弟子たちに具体的な指示を残して入定する

3.空海が完成させた密教とは ~密教の教え~

・鎮護国家思想の学問から現世利益の仏教へ。これまでの仏教と空海が持ち帰った密教の違い
・密教の最終目標はその身のまま仏になること。正しく三蜜加持を行なえば即身成仏できる
・両手を合わせて印を結び仏と一体化して真実の言葉である真言を唱え仏の加護を得る
・密教を経典や注釈書だけで理解するのは困難なため大宇宙の本質を仏の配置で表現した曼荼羅で把握する
・仏の区分は如来・菩薩・明王・天の4種類。それぞれの仏の違いと特徴を知る
・護摩行は密教の修法の一つ。大日如来の智慧の火で煩悩を焼き払う

4.弘法大師の教えを感じる場所 ~弘法大師信仰~

・最澄に遅れること55年、空海がとうとう弘法大師になる
・人智の及ばない出来事から人々を守る密教の教えと弘法大師・空海への感謝が、弘法大師信仰として定着
・修行のための巡礼路だった「四国辺路」が一般庶民の間に広がり「四国遍路」として定着する
・空海の足跡をたどりながら自分を見つめ直す。全長約1400㎞の四国八十八ケ所巡り
・四国遍路をしたいが四国まで行けない人のために全国各地で四国霊場を模した「地四国」が開かれる
・水にまつわる伝説が多い?全国各地に点在する弘法水伝説と開湯伝説
・「うどん県・香川」の産みの親は空海だった?空海が唐から持ち帰ったと伝わる食べ物

【監修者】吉田 正裕(よしだ しょうゆう)

広島県廿日市市出身、真言宗御室派大本山大聖院第77代座主。2008~2018年総本山仁和寺本山布教師。2018~2022年総本山仁和寺執行長、真言宗御室派宗務総長。宗教事業にかかわらず、宮島、広島の地域活動、文化活動などを幅広く行なっている。

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