更新日: 2024年6月26日
四国遍路は空海の足跡をたどる道~空海ゆかりの寺を巡礼する全長1200kmの「四国八十八か所巡り」と全国各地にある「地四国」
空海の出生地・四国は、平安時代中期になると、修行の地として知られるようになっていました。はじめは空海に習う修行僧のための四国巡礼が、江戸時代になると庶民のための巡礼となります。現代の四国八十八か所巡りのやり方も四国の地図といっしょに見ていきましょう。
目次
空海の出身地を歩く巡礼。四国辺路から四国遍路へ
平安時代中期になると、四国は空海の出生地と修行地として知られるようになりました。空海は讃岐国(さぬきのくに)の出身であり、『三教指帰(さんごうしいき)』には「阿波国大滝嶽(あわのくにだいりゅうがたけ)」「土佐国室戸崎(とさのくにむろとのさき)」「伊予国石鎚山(いよのくにいしづちさん)」が修行地として記されています。真言宗を学ぶ僧侶にとって、偉大な師匠である空海の足跡をたどる四国巡礼は非常に重要な修行だったことでしょう。
「四国辺路」は修行のための道
平安時代末期に成立した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』や『今昔物語』には、空海の出身地である四国の海岸線を歩きながら各地の霊験所や寺院に参詣する「四国辺路」が登場しました。最終目的地を目指す往復型ではなく、四国全土に展開する回遊型の巡礼路として知られるようになります。
巡礼中の僧侶は日々の食事を托鉢(たくはつ)(経を唱えながら家の前に立ち、その家の人に食物や金銭をもらうこと)で得ていました。托鉢を求める修行僧に食物などを施す行為は、お接待文化(お遍路さんに親切にすること)として現在に受け継がれています。
四国巡礼は、空海を慕う庶民に広がっていく
戦国時代までの「四国辺路」は主に修行僧のものでしたが、江戸時代になると庶民の巡礼が目立ち始めます。きっかけとなったのが、1687年に刊行された『四国遍路指南(しこくへんろしなん)』です。高野聖(こうやひじり)の真念(しんねん)が執筆した四国遍路のガイドブックで、巡礼すべき寺院を88とし、ナンバリングして巡礼ルートを決定したものです。空海のゆかりの札所をはじめ各霊場の情報や功徳、遍路の心得などに加えて格安の宿情報まで掲載した、極めて実用的な内容となっています。
元禄(げんろく)年間になると海上交通も発達し、旅もしやすくなりました。参勤交代の関係で街道や交通網が整備されたこともあり、四国遍路は一般に広く流行します。先祖供養や現生利益(げんぜりやく)などさまざまな目的で、庶民が巡礼者として空海の出身地である四国を訪れるようになります。
四国辺路から四国遍路へ変化した流れ
僧侶や修験者の修行が空海の足跡をたどる道だった「四国辺路」が
江戸時代に一般庶民による「信仰の巡礼地」に変化
【平安時代~戦国時代】
修行のために空海の足跡をたどる「四国辺路」
・僧侶や山伏、修験者が修行目的で実施
・巡礼ルートは決まっていない
・托鉢をしながら霊験所に参拝し、四国の海岸線を巡礼する
↓
【江戸時代中期~】
先祖供養など個人の事情で巡礼する「四国遍路」
・一般庶民がさまざまな目的で実施
・1687年刊行の四国遍路指南で、巡礼ルートや参拝寺院が示される
・お接待を受けながら、巡礼ルートに沿って88の寺院を参拝する
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