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空海は特例尽くしで認められ、遣唐使節団に参加する

第16次遣唐使節団として派遣される留学僧の追加募集の件を、空海がいつ知ったのかは分かりません。正規の遣唐使節団が難波(なにわ)を出発したのが803年4月16日なのだから、筑紫(つくし)への到着はどんなに早くても4月下旬です。朝廷が留学僧の追加募集が必要だと知ったのは、5月に入ってからの可能性が高いのです。当然空海がその事実を知ったのは、もう少し後のはず。この情報を知った空海は、すぐさま阿刀大足(あとのおおたり)らを通して入唐を希望したと考えられますが、ここで一つ大きな問題が発生します。

空海はまだ正式な僧侶ではなかった

遣唐使派遣は国家事業であるため、使節団に参加できるのは官度僧(国が認めた寺で授戒(じゅかい)を受けた僧侶)だけなのです。空海は出家し真剣に仏教を学んできたとはいえ私度僧(しどそう)であり、国は私度僧を禁止しています。留学僧の追加募集に応募するためには、取り急ぎ官度僧になる必要がありました。

遣唐使になりたい空海の官度僧への道のり

官度僧になるためには、まず国家試験(法相経(ほっそうきょう)か最勝王経(さいしょうおうきょう)の暗唱、宗派の教義に対する学科試験)に合格する必要があります。1年間の合格者数は毎年朝廷が決めて宗派によって振り分けており( 年分度者(ねんぶんどしゃ))、803年の合格枠は法相宗(ほっそうしゅう)5名、三論宗(さんろんしゅう)5名の計10名です。

国家資格に合格したら得度(とくど)が許されます。最初は沙弥(しゃみ)(僧侶見習い)として数年間修行(沙弥行)を積み、正式な比丘(びく)(僧侶)になるための条件を全て満たしたと認められたら具足戒(ぐそくかい)を授けられます。授戒後に必修科目である律学(りつがく)を学び、ようやく一人前の官度僧として認められるのです。

さて空海ですが、803年12月に国家試験を受験します。804年1月に大安寺(だいあんじ)三論宗の年分度者として得度し、沙弥行を積むことなく同年4月上旬に東大寺壇院(とうだいじだんいん)で具足戒を受けています。5月には留学僧として遣唐使船に乗り込んでいるのですから、おそらく律学の学習も省略されたのでしょう。本来であればあり得ない対応であり、遣唐使船の出発に間に合わせるため、形だけ整えたという見方ができなくもありません。

特例尽くしが通った理由

これほどの異例を通すには、僧綱所(そうごうしょ)(仏教行政を担当する役所)・玄蕃(げんばりょう)(僧尼(そうに)の名簿を管理する機関)・式部省(しきぶしょう)(官吏登用試験などを司る機関)などの協力が必要不可欠です。複数の機関を動かせるほど強力な後ろ盾がなければ、押し通せない処置です。後ろ盾として可能性が高いのが、阿刀大足の教え子である伊予(いよ)親王です。桓武(かんむ)天皇から最も寵愛されていた伊予親王が強く推薦してくれたからこそ、空海は留学僧として渡海できたのではないでしょうか。

官度僧になるための流れ

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空海の遣唐使船は30日以上の漂流の末、福州へ漂着する

遣唐使節団として入唐する僧侶は大きく二つに分類されます。一つは最澄(さいちょう)のような請益僧(しょうやくそう)。すでに国内で十分に学んだ僧侶がさらに学問を深めるために短期間留学するもので、渡航費や滞在費は全て国費で賄われます。

もう一つは空海のような留学僧(るがくそう)現地に長期滞在して仏教を学び修行するもので、空海の留学期間は20年。渡航費は国費ですが、滞在中の学費や生活費は原則自費となります。実家の佐伯家や阿刀大足(あとのおおたり)の援助はあったと予想されますし、伊予(いよ)親王がスポンサーになったという説もありますが、莫大な留学費用を空海がどうやって捻出したのかは分かっていません。

いずれにせよギリギリのタイミングで留学僧の座を射止めた空海は、具足戒(ぐそくかい)を受けてからわずか1カ月後の804年5月12日、第16次遣唐使節団の補充人員として難波(なにわ)を出発します。空海は、瀬戸内海経由でまずは太宰府(だざいふ)に向かいました。

空海はどうやって留学費用を捻出した?

空海は地質や地学の知識を習得しており、山岳修行中に辰砂(しんしゃ)(水銀朱(すいぎんしゅ)の原料となる鉱石)の鉱脈を発見。辰砂から採取した水銀朱を寺院などに販売して、利益を得ていたのではないかという説があります。

当時水銀朱は高級品として寺院の装飾に使用されていましたから、経典研究で立ち寄った寺院に話を持ちかけることは可能だったでしょう。また空海が修行したと伝わる徳島県からは辰砂の採掘を行った遺跡(若杉山(わかすぎやま)辰砂採掘遺跡)が出土していることから、地域的にも合致しています。将来の学費を捻出するために商売するというのも、空海らしい行動だと思われます。

空海は、太宰府で最澄ら遣唐使と合流し渡海

空海たち補充人員は太宰府で本隊と合流しました。外海を渡る準備を整えるため数日間滞在したといわれています。空海も最澄と同じ鴻臚館に宿泊したと考えられますが、2人が交流したという記録はありません。またこの時の遣唐使船は4隻ですが、空海は第1船、最澄は第2船に乗っています。ごく近い場所にはいたのでしょうが、お互いがお互いを知らなかった可能性の方が高いかもしれません。

そもそも最澄は弟子や通訳の帯同を許可された請益僧であり、すでに仏教界では名の知れた存在です。一方空海は自ら悟りを開いたとはいえ、官度僧(かんどそう)になって1年未満の無名僧。たとえ顔を合わせたとしても、気軽に話し掛けられる関係ではなかったように思われます。

空海を載せた遣唐使船が博多を発つ

太宰府での準備を終えた遣唐使船は、那ノ津(なのつ)(現在の博多湾)を出港して五島列島方面へ向かいました。かつての遣唐使船は朝鮮半島に沿って航行する安全性の高い北路をとっていましたが、白村江(はくすきのえ)の戦いによって友好国だった百済(くだら)が唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗北。新羅と敵対していた日本は拠点を失い、朝鮮半島に立ち寄ることができなくなっていました。

このため660年代以降に出港した遣唐使船は、東シナ海を横断する南路を進まざるを得なくなります。このルートは悪天候の影響を受けやすく、過去に何度も海難事故や遭難に見舞われています。国内最後の寄港地となる肥前国松浦郡田ノ浦(ひぜんのくにまつらぐんたのうら)(現在の長崎県平戸市(ひらどし)とも、五島列島ともいわれる)を出港した際の心境を、空海は後に「本涯(ほんがい)を辞(じ)す(日本最果ての地を去る)」と記しています。命を懸けて唐に渡るという覚悟が伝わるような言葉です。

東シナ海で遭難し、赤岸鎮に漂着する

田ノ浦を発ってわず1日後の7月7日午後8時ごろ、船団は暴風に襲われます。まもなく第3・4船とは連絡が取れなくなり、空海の乗る第1船も遭難。航路を大きく外れ、東シナ海を南へと流されていきました。

大使の藤原葛野麻呂は帰国後に「生死の間を行き来した。大波に翻弄されながら34日間海上を流された」と報告していますし、空海も当時を回想して「暴風が帆を穿(うが)ち、大風が舵を折った」と記しています。難破船さながらの状態で東シナ海を漂った遣唐使船は、8月10日福州長渓県(ふくしゅうちょうけいけん)赤岸鎮(せきがんちん)(現在の福建省福州市(ふっけんしょうふくしゅうし)から北へ約250kmに位置する港)に漂着しました。空海が乗る唐使船は急死に一生を得たのでした。

朝鮮半島沿いに進む北路は利用できないため、東シナ海を横断する南路で明州を目指すが遭難する
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遣唐使かと疑われるも、空海が疑惑を晴らす

遣唐使船は明州(めいしゅう)や杭州(こうしゅう)に入港し陸路や運河で長安へ向かうルートが大半であり、はるか南方の福州まで流されてきた例はありません。遣唐使節団だと名乗る彼らをどう扱うべきなのか、赤岸鎮の担当者はさぞ困惑したでしょう。県令の胡延沂(こえんぎ)は「ここでは対応できないので、福州の役所に向かうように」と指示。陸路は道が険しくて危険なので、安全のためにも海路を進んだ方が良いとアドバイスまでしています。

この時、福州の長官は病気で辞職しており、後任者はまだ着任していませんでした。長官がいないのであれば、急いで向かっても無駄足になります。そもそも赤岸鎮から福州の役所までは約250km南下する必要があるのですが、難破船同様の遣唐使船は航海できません。一行は赤岸鎮に滞在し、船を修復しながら福州長官の後任者が着任するのを待つこととなりました。

本当に遣唐使かと疑われる

赤岸鎮に何日滞在し空海が何をしていたかは伝わっていませんが、9月中~下旬には出港したようで、10月3日に福州に到着しています。当時の福州は政治経済や外交交易の中心地で、港湾機能も充実していました。朝貢船との対応も慣れているはずなのですが、一行の船は倭寇(わこう)(海賊)と勘違いされ入国を拒否されてしまいました。遣唐使節団の派遣は国家外交なので、船には印符(いんふ)(遣唐使の証)が与えられています。しかしこの印符は途中ではぐれた最澄らがいる第2船に乗せられていたため、一行は自分たちを遣唐使だと証明できなかったのです。

空海の文章力で一行の身分を証明する

状況を打開するため、藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)は観察使(かんさつし)(福州の長官)の閻済美(えんさいび)に上申書を提出しました。しかし事情説明がまずかったのか語学力に問題があったのか、さらに身分を疑われる事態となってしまいました。そこで空海が 「大使、福州ノ観察使ニ与フル為ノ書」を代筆します。

この文書に感銘を受けた閻済美が長安に取り次いでくれたことで、ようやく一行の長安入りが許可されたのです。外交折衝や渉外を補佐する判官(はんがん)や録事、通訳がいたにもかかわらず、なぜ空海が大使の文章を代筆したのかは分かりません。本人から申し出たか、大使から依頼されたのかどちらかでしょうが、空海が語学力や文章力に長けていたことを証明するエピソードといえるでしょう。

ただ最初に長安入りを許可された人員には、空海の名前が入っていませんでした。空海の目的は 「大日経(だいにちきょう)を学ぶこと」 なので、福州に残されても困ってしまいます。そこで空海は、閻済美に入京を希望する上申書(福州ノ観察使ニ与ヘテ入京スル啓)を提出します。その後無事に長安入りのメンバーに加わることができたのです。

空海の遣唐使団はついに長安に到着する

福州(ふくしゅう)到着から1カ月後となる11月3日、一行は福州を出発して長安へ向かいました。メンバーは大使の藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)と随行員、空海や橘逸勢(たちばなのはやなり)など留学僧や留学生の総勢23名です。現在は鉄道や車を乗り継いで移動できますが、当時の移動手段は徒歩と船(運河)しかありません。長安までの約2400kmは、長く険しい道のりです。

もともと第1船は本来の航路から南に外れて漂流しており、赤岸鎮(せきがんちん)や福州で足止めを余儀なくされているため、旅程は大きく遅れています。遣唐使には「皇帝に挨拶する」という役割がありますが、年内に長安に入らなければ朝賀(ちょうが)(皇帝に新年の喜びを奏上する儀式)に間に合いません。大使が朝賀に遅れるわけにいかないため、とにかく急がなければなりませんでした。

昼夜問わずの強行軍で長安を目指す

空海達第1船の遣唐使たちの旅程がどれほど厳しかったかは、第2船メンバーの旅程と比較するとすぐに分かります。菅原清公(すがわらのきよきみ)率いる第2船のメンバーは、明州(めいしゅう)を9月1日に出発し11月15日に長安に到着しています。約1400kmの道のりを75日かけて進んでおり、1日の移動距離は約19kmという行程です。一方第1船のメンバーが長安に到着したのは12月23日。約2400kmの道のりをわずか50日で踏破しているのです。1日50km近く進まなければこの旅程はこなせないことから、「星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏(しんこん)兼行セリ」という藤原葛野麻呂の報告書通り、昼夜問わず進む強行軍だったことがうかがえます。

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空海の遣唐使団、ついに長安に到着し公館に入る

12月23日、長安の城内に入った一行は宣陽坊(せんようぼう)の公館で第2船のメンバーと合流しました。空海も公館に滞在し、詩文や書、筆の作り方などを学んだといわれます。『旧唐書』には 「使いを遣して来朝す。学生橘逸勢、学問僧空海を留む」 とあるから、空海と橘逸勢(たちばなのはやなり)の交流はこのころから始まったようです。橘逸勢も公館で、空海と一緒に書を学んでいたかもしれません。

朝賀など必要な儀式に参列した大使や随行員は年明けの805年2月11日に帰国の途に就きました。空海は勅命により公館から西明寺(さいみょうじ)(現在の陝西省西安市(せんせいしょうせいあんし))へ移動。念願の留学僧生活をスタートさせました。

『スッと頭に入る空海の教え』6月13日発売!

真言宗の開祖であり今も「お大師さま」として多くの人から信仰を集める空海。天才であるが故に数多くの挫折や苦悩を経験しながら、当時まだ新興勢力にすぎなかった密教をいかにしてこの世に広めたのか、そこには現代にも通じる社会を生き抜くための知恵が隠されています。本書は、謎の多い空海の生涯と思想をひも解きながら現代社会を生き抜くための行動の指針や考え方のヒントを紹介していくものです。

1.空海の行動から見る教え~空海の処世術~

・四国の地方豪族出身の真魚(空海)が貴族の子弟が通う大学に入学
・官吏を目指し勉学に励むも儒教に興味が持てず大学を退学、出家
・西日本の霊場で山岳修行に励み悟りを開いて「空海」になる
・苦悩の末、大日経と出会う
・朝廷が派遣する遣唐使使節団の一員として唐へ向かう
・30日以上の漂流の末、福州に漂着。約2400㎞の道のりを経て長安へ。
・密教習得に必要な梵語を学び、中国密教の中心的人物である恵果阿闍梨から密教の全てを伝授され後継者と認められる
・「日本で密教を広めよ」という恵果の遺言を果たすため日本へ早期帰国
・朝廷との約束を破って帰国したため上京の許可が下りず筑紫に滞在
・最澄の執り成しもあり809年に入京が叶う

2.空海の考え方から見る教え ~空海の交渉術~

・南都六宗と距離を置きたい桓武天皇と最澄の活動により、密教布教の基盤が固まる
・「書」という共通点を持つ橘逸勢との交流が嵯峨天皇と結びつく
・薬子の変で乱れた国家を平穏にするため鎮護国家の修法を行ない嵯峨天皇から信任を得る
・早良親王の怨霊を鎮めるために乙訓寺の別当となり高雄山寺で最澄に持明灌頂を授ける
・自分の都合で密教の教えを求める最澄を許せず経典の貸与を拒否。2人の関係が途絶える
・都から離れた紀伊山地に位置する高野山を真言密教の修禅道場として開創する
・唐で学んだ最先端の技術を駆使して故郷に貢献。築池別当として満濃池の修築工事を完遂する
・嵯峨天皇より東寺を賜り国立寺院だった東寺を密教の根本道場に再編する
・さまざまな学問を学べる庶民のための学校、綜藝種智院を設立する
・密教の基盤強化のために病を押して活動し弟子たちに具体的な指示を残して入定する

3.空海が完成させた密教とは ~密教の教え~

・鎮護国家思想の学問から現世利益の仏教へ。これまでの仏教と空海が持ち帰った密教の違い
・密教の最終目標はその身のまま仏になること。正しく三蜜加持を行なえば即身成仏できる
・両手を合わせて印を結び仏と一体化して真実の言葉である真言を唱え仏の加護を得る
・密教を経典や注釈書だけで理解するのは困難なため大宇宙の本質を仏の配置で表現した曼荼羅で把握する
・仏の区分は如来・菩薩・明王・天の4種類。それぞれの仏の違いと特徴を知る
・護摩行は密教の修法の一つ。大日如来の智慧の火で煩悩を焼き払う

4.弘法大師の教えを感じる場所 ~弘法大師信仰~

・最澄に遅れること55年、空海がとうとう弘法大師になる
・人智の及ばない出来事から人々を守る密教の教えと弘法大師・空海への感謝が、弘法大師信仰として定着
・修行のための巡礼路だった「四国辺路」が一般庶民の間に広がり「四国遍路」として定着する
・空海の足跡をたどりながら自分を見つめ直す。全長約1400㎞の四国八十八ケ所巡り
・四国遍路をしたいが四国まで行けない人のために全国各地で四国霊場を模した「地四国」が開かれる
・水にまつわる伝説が多い?全国各地に点在する弘法水伝説と開湯伝説
・「うどん県・香川」の産みの親は空海だった?空海が唐から持ち帰ったと伝わる食べ物

【監修者】吉田 正裕(よしだ しょうゆう)

広島県廿日市市出身、真言宗御室派大本山大聖院第77代座主。2008~2018年総本山仁和寺本山布教師。2018~2022年総本山仁和寺執行長、真言宗御室派宗務総長。宗教事業にかかわらず、宮島、広島の地域活動、文化活動などを幅広く行なっている。

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